See you after school. 07:貴方との距離が遠い 軽い身体疲労の後に味わう精神的な疲れは、苦痛以外の何物でもない。 いっそのこと机に伏せてしまえば楽なのであろうが、真面目な理咲は授業を軽んじるわけにはいかないという考えの持ち主だった。 そして何より、今ここで熱く世界史を語っている男に何か言われるのが一番つらい。 体育の後の世界史は、非常に憂鬱である。 理咲のクラス、2−3ホームの世界史担当は金鰤という若い男性教師である。 「本当に教師か」と疑いたくなるような長い黒髪を一つに束ねた、爬虫類みたいな顔の男。物腰はとても柔らかく紳士的であるのに、理咲はどうしても金鰤のことが 信用できなかった。嫌悪感すら感じるのだ。 理咲が1年生のときの世界史担当はアームストロング・美良というハーフの女性教師で、彼女の授業はよそ見も許されないほど厳しかった。彼女自身が非常に厳格な人物であり、 下手に近づくと斬られそうな雰囲気を纏っていたが、それでも美良が時折見せる生徒への気配りを好ましいと理咲は思っていた。 だが金鰤にはそれがない。人を人とも思わないような冷たい瞳が理咲の警戒網に掛かり、世界史の時間はなんとも落ち着かないものになった。 昨年に引き続き美良だったらよかったのに、と思っても生徒は教師を選べないのだ。ならば理咲にできる唯一のことは、絶対に金鰤に眼を付けられないよう注意しながら 授業を受けることだった。今のところ問題なく済んでいる。が、まだ4月の中旬だ。先の長さに気は滅入る。 金鰤は、授業に関してはとても熱心だった。 いや、『授業』ではなく『戦争の歴史について語る』のに熱心だと言うべきか。 彼はひとつひとつの戦争にも信念と思惑があるのだと語り、どの人物のどういう点がどう評価できるのかまで詳細に説明する。 理咲とて世界史が嫌いなわけではないし、尊敬に値する歴史上の人物はいると考えている。しかし、戦争はあくまで戦争であり、その果てにあるものは血と遺恨しかないと、 どこか冷めた気持ちで話を聞くのだ。 だから金鰤のように戦いの歴史に重点をおいて恍惚と語る態度が理解できなかった。事実は事実としてしか記憶できない理咲は、どうしても金鰤のことが理解できなかった。 よくないことは重なるもので、週3回ある世界史のうち、1回が体育の後に組まれている。 身体を動かした後の、気分が乗らないときに金鰤に会いたくなかった。 だが時間割にも選択権がない生徒は、ただそれを享受するしかない。金鰤の異質さに気付いているクラスのほぼ全員が仕方なしに大人しく授業を受ける道を選んだのである。 「理咲も大変よね」 と、理咲の脳裏に麗華の言葉が過ぎった。 それは世界史にも金鰤にもまったく関係のないことだったけれど。 それを言われたのはつい先程の体育の時間だった。同学年の3クラスが集まり、男女別になって行われる体育は偶然にも麗華と同じ時間帯だった。 年度で初めての体育の時間に好きな種目を選択して1年続ける形式の体育で、理咲と麗華は全身運動ができるテニスを選んだ。雨や雪の日は卓球になる。 しかし、今日の体育は陸上だった。それどころか、今日に限らずこれから暫くは陸上だ。 アメストリス学園高等部には運動会がない。 9月にアメトリ祭を控えているため、秋に運動会をする余力がないためである。かと言って梅雨入り前の5月下旬から6月上旬では準備期間が短すぎる。そんな理由から 高等部には運動会がなかった。 その運動会の代わりになるのが陸上競技大会である。中等部横に併設されている総合グラウンドを貸し切って行われる陸上競技大会は、その名の通り陸上競技を競う 大会である。しかし運動会のようにいくつかのクラスで団を結成することはなく、競技は全クラス混合の個人戦、得点は同学年でのクラス対抗となる。学年で一番になった からといって賞品が出るわけではないのだが、クラスごとにTシャツを作ったり応援に勤しむなど、『クラスの団結力を高めるために』との謳い文句も毎年 なかなか上手くいっているようだった。 その陸上競技大会のため、5月に行われる大会が終わるまでは「練習」という名目の下、体育はすべて陸上となる。基本的には大会で自分が参加する種目の練習に参加し、実際に 身体を動かしたりタイムを計ったりするのだ。 瞬発力に優れる理咲は50m走に参加することになった。今日も実際にタイムを計るというので、列について順番待ちをしているとき、これまた同じく50m走に出る麗華が 理咲に言ったのだった。「理咲も大変よね」と。 当然のことながら発言の意図が掴めない理咲は瞬きを繰り返しながら麗華を見つめた。そんな理咲に麗華はくすりと笑みを浮かべる。 「やっぱり苦労してる本人は気づいてないのね」 「・・・・・・どういうこと?」 知らず苦労を背負うことが多いと周りからよく指摘されるが、今この場で改めて言われるようなことだろうか? 理咲の柳眉が寄る。 「セクハラ大烏が春休みに大怪我して入院した所為で、陸上競技大会の執行役が生徒会に回ってきてるって聞いたけど」 黒曜石を思わせる円らな瞳で覗き込んでくる麗華に、理咲は言葉を返せなかった。 執行役が生徒会に・・? 理咲はそんな話、一言も聞いていなかったのだ。 大烏とは体育教師のひとりで、何かにつけて女子生徒の手を握ってくる男だった。通称「セクハラ親父」。しかし彼は体育委員会を長年仕切ってきた人物であり、 陸上競技大会を運営する体育委員会には欠かすことのできない教師なのだ。 その大烏が入院したとなれば陸上競技大会に影響が出るだろう。発足して間もない体育委員では仕切り役がいないために纏まらないのだ。 しかし理咲たちは何事もなかったかのように大会の練習をしている。ということは、別の誰かが大会の準備運営をしていると考えるのが自然である。 「・・・他の体育の先生じゃなくて?」 「他の先生たちは運動部の監督で忙しいからねぇ。その点、鞍馬先生なら引き受けそうじゃない? 生徒会があるんだし」 確かに、好々爺然とした鞍馬なら引き受けてきかねない。むしろ生徒会で陸上競技大会を仕切ることになるとしたら、鞍馬が原因としか考えられなかった。 「 「・・・・えぇ・・」 漸く理咲の中で合点が行った。おそらく麗華の言葉通り、鞍馬が陸上競技大会の仕事を引き受け生徒会に回してきているのだろう。だが理咲のところには何一つ回ってきて いない、その理由。 思い返せば入学式あたりから増田の様子がおかしかったのだ。クラス代表者会議で使うレジュメおよび資料作成に増田はほぼ関わらなかった。最後の最後に目を通した だけなのだ。その過程での増田が屋上で昼寝をしていただけだったとしたら、単なるサボタージュの一言で終わるだろう。しかしあのとき増田は何かの資料を持ちながらパソコンに向かっていた ではないか。「何をされてるんですか」と聞いたら「ただの遊びだ」と増田は答えた。「では仕事をしてください」と諫言したら「まぁまぁ理咲ちゃん、増田なんて放っと こうぜ」と氷薄が宥めてきた。氷薄がどこまで知っていて増田を擁護したのか分からないが、絶対あれが回されてきた陸上競技大会の仕事に違いなかった。 (なんで何も話してくれないのかしら・・) 眠いだとか面倒だとか疲れただとか、そんなどうでもいいことばかり言うくせに・・・・増田は結局そういう重要な話を理咲にしてくれないのだ。 増田には独りで抱え込むか氷薄と共有するかの二者択一しかない。理咲にできることはサボりがちな増田を生徒会室に引っ張っていくことくらいで、会長のサポート役として 本当に増田の隣に立つのは氷薄なのだ。 (心の距離は大きいまま、ね) 生徒会に馴れ合いを求めているわけではない。しかし、円滑に仕事をするためにも人間関係は良い方が好ましい。そう思うのに、なかなか上手くいかないのだ。 朝しか「理咲」と呼ばない意味不明な態度がすべてを語っている、と理咲は思った。 金鰤が板書のために背を向けた瞬間、ほっと息を吐いた理咲は何気なく窓の外を眺めた。 窓際の席からは空もよく見える。 生憎今日は曇りがちなため、気分転換にはならないのだが。 それでも、理咲は空を見続けた。風の流れによって、雲は姿かたちを変えていく。 やがて浮かんだ考えに、理咲は自嘲の笑みを殺せなかった。不自然に唇の端が歪み、眉に少し力が入る。 (私らしくない考えだわ) 雲くらい簡単に関係が変われば楽なのに、だなんて・・・・・。 (本当に |