ブラックコーヒー・後編 (現代パラレル)




 強張る身体、怒った顔、辺りを包むコーヒーの香      これが、ふたりの始まり。






 振り返った先に悪友の影すら見出せなかったロイは、瞬間的に表情を改めた。いや、“ 改めた ” という表現は正しくないだろう。それは気まずそうな顔だったのだから。


「す・・すまない」
「っ、いえ・・・」


 恐い人という先入観が定着しつつあったロイからするりと謝罪の言葉を掛けられて、リザは少し驚いた。友人がそこにいるものだと思い込んでいたんだ、と眉尻を下げながら 弁明する彼は悪い人に見えない。
 一方のロイは、目の前の少女が抱える本や紙束から、彼女が院生控室に足を運んだ理由におおよその見当をつけていた。質問の内容にもよるが、もし時間が掛かるようなら 残りの文章入力はヒューズに任せればいい・・というか、本来これはあいつの課題だ、などと考えながら。


「あー・・・授業で分からなかったことの質問、でいいかな?」
「は、い・・。グラマン教授が、分からないところは院生に聞いておいで、と仰ったので・・・」
「あの御仁らしいな」


 ロイはくつりと喉で笑い、膝に乗せっぱなしだった作業中のファイルに付箋を挿んでから席を立つ。


「この後の予定は?」
「もう講義は入っていません」


 時間は十分ある、か・・と呟いて、ロイはコーヒーメーカーがある机の前に移動した。「そこ、適当に座っていいよ」とリザに指示を出しながら、 大きなマグカップにコーヒーを注いでいく。
 独特の香とともに、白い湯気が空気に溶けた。


「コーヒー飲めるかい? 紅茶もあるけど」
「飲めますけど・・あの、お気遣いは結構ですから」
「君の方こそ、気遣いは無用だ。砂糖とミルクは?」
「いえ・・・・・そのままで」
「了解」


 どうぞ、とリザの前に置かれたカップは明らかに来客用だ。量も普通程度。そっと手にとって一口含むと、それはやはり苦い。
 カップから視線を上げると、コーヒーを啜りながらパソコンの画面を覗き込んでいるロイが見えた。とても忙しいときに押しかけてしまったらしいとリザは悟る。 日を改めようかしら・・と考えていたリザに、ロイは3分だけ待っていてくれないか、と声を掛けた。リザがコクリと頷くと、すぐにロイはキーボードに指を走らせる。 ロイの眼はすでに研究者のそれだ。驚異的な集中力を発揮してしまう、知識を探求する者の眼。
 先ほどと同じようにロイは他者の気配など感じていないだろうと思ったからこそ、リザは肩の力を抜いてロイの手元を見つめていた。 大きな手だ。指も長い。キーを叩く動きがとても速いのに、忙しなさを感じさせないところがすごいとリザは思った。


「君が来たとき、ここに髭面の眼鏡男はいなかったか?」


 集中しているときのロイが話しかけてくるはずがない。どこかでそう思い込んでいたリザは、いきなり耳に飛び込んできたロイの声に驚いた。本日何度目の驚きだろうか。
 ヒューズがリザと入れ違いに出ていったこと、用事があると言っていたことを伝えると、ロイの顔が盛大に歪んだ。どうやら怒っているらしい。 「どうせグレイシアに電話でもしに行ったんだろう」とか、「代わりに課題をやっているのが馬鹿らしいな」とか、「結婚するのはいいが、浮かれすぎだ」と 小さく文句を言う彼は、童顔も手伝ってか、高校生くらいに見える。


「・・・・ヒューズ先輩、ご結婚されるんですか?」
「ああ、来年の夏に。就職してすぐでは生活も安定しないだろうに」
「先輩は現実的なんですね」


 リザがくすりと笑うと、ロイは肩を竦めた。


「早く結婚したいと思ったことがないからこそ、冷めた目で見ていられるのかもしれないな」


 よし、終わった・・という声とともにパソコンの前から退いたロイはコーヒーカップを片手に、リザの隣に腰を下ろす。その表情に不自然なところは何ひとつない。
 しかし、対するリザは少し戸惑っていた。ほぼ初対面といっていい人物から、ふつう初対面では話さないような話を聞いてしまったからだ。その所為で、ロイの「お待たせ。 どこが分からないんだい?」 という言葉に反応するのが遅れてしまい、リザはますます気まずい気分になる。


「・・・・・ここです。この、ライアン法というのが理解できなくて・・」
「ライアン法というのは、分散分析の下位検定のひとつだが・・・・その前に、君は1年生?」
「はい、そうです」
「統計法の授業はどこまで進んでいる?」
「先週はχ2 検定を習いました。今週はt 検定の予定です」
「では、分散分析もまだだな。そっちはいいのか?」
「・・・・・本を読んで、公式だけは頭に入れましたが」


 リザは持参した本を示すと、ロイの眉間に皺が寄った。
 「理解はしていない?」 との問いに「・・・はい」 と答えると、さらに皺が深くなる。


「まあ当然だろうな」


 空気を多く含んで発せられた声は、まるで溜息のようだ。
 ロイはいきなり席を立つと、長机の一角に積み上がっている本の山を漁り始めた。リザはその様子を呆然と見つめることしかできない。


「いずれ授業で習うだろうが、下位検定であるライアン法を理解したいというのであれば、まず分散分析からきっちり理解するべきだろう。 ちなみに、その本は分かりにくいことで有名だ。もっと簡単に解説している本がある・・が・・・・あれ、どこにいった?」


 至極真面目な表情で探し物をしているのに、「おかしいな・・」などと時折こぼれる呟きがなんとも可愛らしくて、リザはまたくすりと笑みを浮かべた。
 面白い人だ、と思う。そして、一緒にいて苦しくない、不思議な人だとも思う。つい先ほど手厳しい注意を受けたばかりだというのに。


「・・・・・・結婚・・」


 なぜか本当に無意識だった。まるで旧知の友人に話しかけるように、するりと言葉が音になる。


「え?」
「生活に不安があっても結婚する理由のひとつは、お互いをもっと知りたいからなんだと思います」


 その言葉を聞いて、ロイの動きがぴたりと止まった。驚いたように瞠った目はしっかりとリザを捉えている。
 リザはロイの反応を見てから自分の発言に思い至った。唐突にも程があるし、何より内容がありえない。心の中で反芻すると、顔が一気に熱を帯びた。しかし、じっと見つめてくるロイから視線を外せなくて、自然と ふたりは見つめ合う形になる。


「「        ぁ・・・」」






「ぃよお! 優しいお兄さんが帰ってきたぜ!! ・・・って、あれ?」






 ばたーん、という豪快な効果音つきで現れたのはヒューズだ。
 瞬間的にロイは顔を上げ、リザはびくんと身体を引き攣らせる。しかしリザはヒューズの方へ振り返らずに、そのまま俯いてしまった。 その反応に違和感を感じ、自称『優しいお兄さん』はリザに声を掛けようとする。が・・・・・


「す、すみません! 急用を思い出しましたので、失礼致します!!」


 リザは勢いよく立ち上がり、荷物を抱え、ヒューズの横をすり抜けて出て行ってしまった。その素早さは、吹き抜ける風を彷彿とさせる。 だがしかし、顔を伏せたままで出て行ったリザの耳が真っ赤に染まっていたことを観察眼に長けているヒューズが見逃すはずもなく。


「なんだなんだぁ? お前まさか、いきなりプロポーズでもしたのか?」
「っ・・するはずないだろ!」


 お前じゃあるまいし・・! と目くじらを立てるロイの視線の先で、コーヒーの湯気があわく空気に溶けていく。




 少女の名前すら聞いてなかったことにロイが気がついたのは、それから30分後のことだった。

















fin.

















2007/12/15 up