「触らないでください。血で・・・・・汚れますから」




 その一言がいつまでも頭の中で反響していた。












   眼を開けて真実を見つめよ












 イシュヴァールの内乱が殲滅戦へと名を変えてから1ヶ月が経とうとしていた。国家錬金術師という新たな戦力を得たアメストリス国軍は攻戦に転じ、すでにイシュヴァール 全地区の5割は殲滅が完了している。この状況は泥沼化していた内乱期から見れば明らかにアメストリス側の快進撃と言えた。 が、しかし日々戦死する国軍兵士の数は以前とそう大差なかった。
 実際の戦場となる市街地で戦死した者はそのまま路傍に打ち捨てられ、制圧完了後に遺留品だけ回収される場合も多い。埋葬するにも限度があるのだ。 一方、戦闘時に軽傷で済んだものは翌日も戦闘に駆り出され、重傷を負った者は医療品の少ない救命テントにてじわじわ苦しみながら死を待つのみである。 生き残ったことが『幸せ』であるとは必ずしも言えないような状況だった。


 現時刻、一八二○。
 赤々とした夕日が故郷の方へ沈むのと同時に、熱を留めぬ砂礫の大地は冷えていくばかりだ。


 一日の戦闘が終わり、奇襲さえ受けなければ夜は静かなものである。 救命テントから聞こえていたはずの苦悶の声はいつもいつしか耳に届かなくなるのだ。テントの中でなにが行われているのか非常に気になるところではあるが、 身をもって知りたいとは誰も思わないだろう。そんな至極尤もでありながら利己的な思考が渦巻く宿営地の中をリザはひとり歩いていた。 外界からの情報を一部遮断し、取り入れ、あちこちで上がる焚火を的確に避けながら。
 女の身であることを考えるならば、無闇に歩き回らない方が得策だ。人気のない所で狂気染みた男と一対一というのも危険だが、女性が少ない戦地では多勢に無勢という 状況も冗談ではないことをリザはとくと説かれた。そしてそのような状況に陥らないために出来る限り傍に居ろ、とも。昔馴染とはいえ現在は少佐と士官候補生の関係 であるため、本来ならば気遣い無用と断るべきなのかもしれない。しかしリザも洒落にならない状況は回避したかったため、戦闘時以外はなるべくロイやヒューズと共にいた。 リザが探しに行くこともあれば、ロイたちが見つけてくれることもある。リザは担当区の中でも作戦本部寄りの見晴らしがきく建物に潜んでいることが多いことから、割合的にはロイか ヒューズがリザを見つけることの方が多かった。
 しかし、リザはここ2日ほどロイの顔を見ていない。
 焔の錬金術師が戦死したという噂は聞かない。人間兵器喪失による士気の低下を恐れた上層部の情報操作によるものではなく、ロイは戦死などしていない。 なぜならリザは一日に数回、轟音とともに上がる巨大な火柱を目撃するのだ。キンブリーの錬金術は大爆発を引き起こすが、火柱は上がらない。多くの命を一瞬にして 消し去る忌まわしき業火は、しかしロイの生存をリザに知らせる役割をも担っていた。
 だが、肝心のロイと会わない。姿が見えない。
 望まぬ再会を果たした夜、錬金術を大量虐殺に使用していることについてリザはロイに理由を求めた。あのときの心情に批判が混じっていなかったといえば嘘になるが、 それ以上の感情・・憎みや怨しみを込めた発言ではなかった。 死んでほしくないし、怪我だってしてほしくないとリザは心から思う。ロイの生を願いながら、罪のない生命を奪っているという酷い矛盾を抱えて。
 心の闇を広げるだけの自問自答に飲み込まれそうになったとき、ふと前方を横切った影を見てリザは我に返った。
 今日の戦闘終了時にスコープでその姿を確認していたヒューズだ。


「ヒューズ大尉!」


 リザはヒューズのことを頼れる兄のような存在であると認識していた。そして言わずもがな、ロイの親友である、とも。


「あ・・リザちゃん?」
「マスタング少佐はどちらにいらっしゃるかご存知ですか!?」


 ロイのことは大概ヒューズに尋ねれば分かるとリザは信じていた。だからタイミングよく通りかかったヒューズを、上官でありながら私事のために引き止めたのだ。


 そう・・・リザはずっとロイのことを探していた。










 ロイやリザが属する大隊の本部は制圧されたイシュヴァール人たちの街にある。
 いくら岩と砂だらけの厳しい土地とはいえ小さなオアシスは存在し、イシュヴァール人たちはそこを中心に街を発展させてきた。また、彼らは地盤が不安定な砂地ではなく 岩場に街を築くことが多いので、ある程度高さがある建造物も造ることができたらしい。内乱時から「野蛮人ども」と罵られてきた彼らだが、文化のレベルは決して低く なかった。その事実を目の当たりにして、派兵された当初はリザも驚いたものだ。
 本部や情報部は戦闘時の作戦指揮などの関係からイシュヴァール人たちの元民家や元集会場に設けられる。衛生面や看護の都合から、救命テントも市街近くの岩場に 設置されることが多い。しかし一般兵が寝泊りするテントを張れる広大なスペースはなく、彼らのテントは敵陣から見て本部の後方にある砂地に設置されていた。 周りが砂しかなければ見通しが利くためゲリラ戦も展開されにくい。また、砂地の方が圧倒的に広大な面積を有しているので、同じ隊の人員を集めて収容するのにも適していた。
 ロイのテントもこの夥しい数のテント群の中にある。
 テントは砂地にあっても、固い大地を踏み慣れているアメストリスの兵たちは「休息の間だけでも・・」と言いながら岩場で火を焚く。そのためか、恐らく見張りの兵くらい しか人がいないテント群のあたりはとても静かだった。人が息を潜めている『静寂』ではなく、生き物の気配がまったく感じられない『静寂』だ。
 国軍の宿営地においてその静寂は異質なものである。
 リザはざくざくと砂を踏みながらロイのテントへ近づいていった。手にしたトレーの上には二人分の食事     錆びついた金属製カップで配られた味のしないスープと、 乾パンが申し訳程度に乗っている。
 元々これを支給されたのはヒューズだった。ここ3日、ロイがテントに篭るようになったから仕方なく食事を運んでいる、と肩を竦めながらヒューズはリザに話した。 「俺も作戦の関係で忙しくて会いにいけなかったんだ、ごめんな」とも。てっきり人目が気になるからテントの方へ移動して話したのだと ばかり思っていたリザは、告げられた状況に驚いた。


「ずっと、ではないですよね」
「んー・・まぁ一応殲滅には出てるな」


 それ以外のときは絶望のド真ん中にいるような顔をして蹲ってる、とは口にできなかったが。 それでもリザには伝わったのだろう、眉根を寄せて唇を噛み、少し俯いた顔からはロイを案じている心中が見て取れる。
 ヒューズは悩んだ。今も沈んでいるのであろうロイと会わせてよいものか。優しすぎるリザと会わせてよいものか。
 ヒューズは考える。自分はロイを戦場に引っ張り出すことしかできない。だが、リザならばロイを休ませてやれるかもしれない。
 ヒューズは躊躇う。いくらロイの昔馴染とはいえ、リザは女だ。今まで意気消沈していたロイに鬱積した感情が膨れ上がってリザに向かないとも限らない。
 だが          ・・・


「あの・・・少佐にお会いすることはできませんか?」


 ヒューズがはっと我に返ってリザを見遣ると、彼女はヒューズを見上げていた。その瞳に迷いはなく、それを見たヒューズは「ロイが不穏な気配を見せたら絶対に逃げるんだ ぞ」と念を押して、手にしていたトレーをリザに渡した。つまり、食事を運ぶという名目で会いに行け、と。
 リザは静かに「はい」とだけ答え、ヒューズに一礼してから歩き出した。後にはざくざくと砂を踏みしめる音だけが残った。
















 いつものような夕暮れ時だった。人殺しをした後が『いつもの』とはおかしいが、それでも殲滅に荷担している身としては『いつもの』部類だった。 急襲を警戒しつつ帰営を急ぐ仲間に混じってロイも宿営地を目指す。だが左右と後方にのみ注意する仲間とは違い、ロイは上方も気にしていた。
 どこかにリザがいるのだ。味方の陣営を守りやすい位置でライフル・・マウザーKar98kFZを構えるリザが、この辺りに。
 帰営は宿営地から一番離れた区から順に行う。そのため前線の最前線に出ているロイが帰還するころまでリザも引き上げないのだ。だからロイはできるだけリザを探し、 またリザの方もロイを探し、宿営地まで共に帰るのが日課だった。
 果たしてその日もロイはリザを見つけた。いや、正確にはKar98kFZの先を、なのだが。
 民家の3階部分の窓から僅かに見えた銃身は、味方が帰営する様を見ているはずなのにぴくりとも揺るがない。 しかしロイが建物の下で小さくリザを呼ぶと銃身は室内に消えた。通常であればこの後30秒も経たない間にリザが降りてくる。ロイは壁を背にして、疎らに通り過ぎる下士官の 敬礼に応えながらリザを待った。しかしロイの体内時計で1分が経過してもリザは降りてこない。早鐘を打ち始めた心臓を誤魔化しつつ、ロイは建物内に滑り込んだ。


 銃身を確認したのと同じく、リザは3階にいた        ひとりではなかったが。
 部屋の入り口付近にはイシュヴァール人の死体が二体転がっていたのだ。仰向けに倒れた死体はどちらも血溜まりの中。
 一方のリザは、咽かえるような血の臭いが充満する部屋の窓際で蹲っていた。左上腕部と左膝下の軍服がドス黒く染まっている。リザは腕の手当てを先行していたが、 両腕が使えないためか時間が掛かっているようだった。


「私がしよう」


 ロイが膝をついて手当てを引き継ぐと、リザは小さな声で「すみません」と謝る。傷は2ヶ所とも銃弾が掠った程度の軽傷だったが、 撃たれてからすぐに止血をしなかった所為か引き攣り、十分に動かなくなっていた。


「状況説明を」


 とりあえずの応急処置を施しながらロイは尋ねた。荒っぽい手当てからリザの気を紛らわせるためと、ロイ自身がリザの白い肌から意識を逸らすためだ。


「はい。敵陣からの移動経路は不明ですが、10分ほど前、あのイシュヴァール人たちが突如階下から現れました。おそらく宿営地へと引き上げる我が軍の兵士を 狙い打つポイントとして利用するためであったと思われます」
「そうか。それにしても・・打たれるのは初めてじゃないのか?」
「・・・小銃を構えなおすのにタイムラグがありましたので」


 被弾しても敵に対する警戒を解くことができない状況では止血もできず、リザは背後に気を配りつつ再び眼下に狙いを定めなければいけなかったのだ。走る痛みに 顔を歪めることはあっても、リザは決して悲鳴を上げない。撃たれてからも、手当てを受けている今も。ロイが見る限りでは、リザは痛みを受け入れなければ ならないものと見なしているようだった。


「よし、終わりだ。後で必ず軍医に診てもらうように」
「ありがとうございました」


 ロイに呼ばれてから止血をするよりも先に点検したKar98kFZを担いでリザは立ち上がる。
         しかし・・・


「・・・ぁ・・」


 固まった脚では滑らかな重心移動ができず、リザはよろけた。 ロイが半ば無意識的に腕を出してリザを抱きとめたが、腕の中にすっぽりと納まるリザは軽く、細く、そして柔らかい。 その感触に改めてリザは女性であり、まだほんの少女に過ぎないことをロイは思い知らされた。リザを抱き寄せる腕に思わず力が入る。


       っ・・!」


 しかし次の瞬間、悲鳴ともとれる小さな声と共にロイは突き飛ばされた。反動でロイもリザもよろけたが、特に脚を負傷したリザのふらつきは大きかったが、しかし転倒 することはなかった。


「触らないでください。血で・・・・・汚れますから」


 リザの言葉にロイが息を呑んだ後は、ふたりの間に沈黙が落ちるのみだった。リザは今までにないくらい眉間に皺を寄せ、ロイの足元を睨んでいる。
 ロイは己の手を見つめた。銃もナイフも使わないロイの手は実際に血で染まっているわけではない。煤で薄汚れた発火布に刻まれた錬成陣の赤は不気味なほど鮮やかだ。 しかし、命令に従い誰よりも多くのイシュヴァール人の命を奪っている両手は『血に汚れた』と表現するのに相応しいとロイは思った。ぽたぽたと滴る鮮血が幻覚として 見えそうになるくらいに。
 ロイには返す言葉がなかった。リザが掠れた声で「すみません」と謝罪し、頼りない足付きながらも建物から撤収しようとしているのを見ても、ロイは 呆然と立ち尽くすのみだった。




 あの日から3日経った今でもロイはテントの中で蹲っている。あの建物内での遣り取り後のロイの記憶は定かではなく、気が付いたら与えられたテントで蹲っていたのだ。 ただロイが思い出せるのは、砂にまみれた金髪が不自然な足取りに任せて揺れている光景だけであり、その金髪も3日見ていない。
 殲滅には変わらず参戦していた。・・・・・それが『上の命令』だから。
 しかしロイ・マスタングと焔の錬金術師との切り替えが以前よりも上手くいかなくなっており、いつもヒューズに檄を飛ばしてもらうことで漸く軍人の仮面を被ることが できる状態に陥っていた。ヒューズにとっては迷惑な話だとロイは自嘲するが、しかし身体が泥のように重くて立ち上がることさえできないし、かといってヒューズ以外の 人間にそんな姿を見せるわけにもいかない。
 己の問題であるにも関わらず、ヒューズに『血で汚れた手で惚れた女を抱きしめるのか』などと暴言を吐いたのは2日前の朝だ。
 ヒューズは怒りを顕にしながら、それでも彼にとっての幸せと恋人への想いを示してくれた。地獄を見たからこそ何気ない日常がなにより大切であり、かけがえのないもの である、と。だからこそグレイシアの未来を守りたい、と。
 戦争など知らなかったころが幸せであったことはロイも認められる。ヒューズの愛し方でグレイシアは・・・・ヒューズとグレイシアのふたりは幸せになれるとも思っている。 だがそれはグレイシアが本当の戦争を知らず、ヒューズの愛を受け入れるからこそ得られる幸せだ。そのことに思い至ったからこそ、ロイは極上の幸せを説くヒューズの真剣な眼を 正面から受け止めることができなかった。
 ロイが惚れた女は、怨みと後悔と荒廃しか生まない戦いが続くこの地で銃を手にしている。
 そしてその女は、ロイの手を拒んだ。
        それがロイとヒューズの絶対的な差だった。取り返しがつかない差だった。


(拒まれても当然だがな・・・)


 あの場でリザをどうこうしようという気はなかったが、抱きとめるに留まらず抱き寄せた理由を問われれば不純な動機しか浮かんでこない。  ロイの手を振り払ったリザの声には確かに嫌悪感が含まれていたし、顔には軽蔑の色が滲んでいた。
 ロイは多くの生命を奪った。それも、人々を幸福にするために使われるのだと信じてリザが託してくれた秘伝を使っての大量虐殺だ。
 そして、リザが士官学校に入る契機になったのもロイであり、軍は弱者を守るために存在しているのではなかった。
 焔の錬金術師が出撃するごとにアメストリス側の勝利は確実なものになってゆくが、逆にロイの心は沈んでいく一方だった。味方の命を救おうとすれば敵を屠るしかなく、 敵に情けを掛けようものなら味方もろとも自身の命すらない。究極の二者択一を迫られたロイは『敵を潰す』ことを選んだ。自分の命は惜しくなかったが、味方の中には 死なせたくない者    士官学校時代の友人や尉官時代の上司・同輩・部下がいたのだ。そして、偶然の再会により参戦の数日後には失いたくない者の筆頭としてリザとヒューズが挙がってくる。
 ロイにとって、生命は等しいものでなかった。拙い感情に大きく左右されるモノだった。そして助けたいと思えば思うほど、実際に助けられる数が限られてしまうモノだった。


 葛藤を抱える人間ほど弱いものはない。
 矛盾を内包する人間ほど脆いものはない。


 今のロイはまさにそのような状況だったのである。
















 食事を運んできたのはいいがロイのテントから人の気配が感じられず、リザは途方に暮れた。ヒューズと違ってリザは本来気軽にロイを訪ねることができない。 階級差もあるが、異性同士ということで外聞も気にしなければならないからだ。
 少し悩んだリザは、それでも二人きりで話ができることは滅多にないからと理由を付けてテントの中でロイを待つことにした。現在は無人とはいえロイが寝起きしてる テントだ、「失礼します」と小さく声を掛けてから防砂幕が下りている内部に滑り込む。
 ほぼ満ちている月のためか、ランプなど一切使用していないはずのテント内部はぼんやりと明るかった。しかし、明るかったからこそ確認できた物体にリザは身体が跳ねるくらい 驚いた。広いテントの奥、シルエットからおそらく机だろうと推察できる影の横に、人工物ではありえない曲線を有した影が存在したのだ。しかも影は確かに動いて、リザの方を 窺っている。


「・・・少、佐・・?」


 テントの外からは全く分からなかったが、動く影の気配はロイのものだった。恐る恐るリザが声を絞り出すと相手の警戒が少し緩む。
 一方、突如として侵入者を迎えたロイもかなり驚いていた。思考の渦に嵌まりながらも、ロイの周囲警戒レベルは戦闘時と同じだったのだ。しかしロイがテント外の存在に 気付いたのはリザが「失礼します」と声を発してからである。侵入者がもしリザではなくイシュヴァール人の刺客であったとしたら、今頃殺されていたかもしれないとロイは思った。


        何をしに来た」
「・・・・・ヒューズ大尉に代わって、お食事をお持ちしました」


 言いながらリザがロイに歩み寄る。距離が縮まる分だけ互いがはっきりと見えてきた。
 ロイが見る限りでは、リザはロイを警戒していないようだった。忌み嫌う者としてではなく、以前と同じように近しい者として接している雰囲気が漂っている。
 それが逆にロイの不信感を煽った。


「傷はもういいのか?」


 だからロイはあえてあのときを示唆する質問をぶつけた。


「はい、大丈夫です。戦闘にも支障ありません」


 しかしリザの反応は至って普通だ。表情にも声にも険しさはない。
 リザはそのままロイの傍らに座り、トレーを差し出す。トレーの上には二人分の食事。ロイがそれを凝視すると、リザは少し困った顔をして「私もこちらで頂いて よろしいですか?」と尋ねた。元々それはヒューズの食事であったのだが、リザにトレーを託したとき回収されずに残っていたのだ。リザも夕食はまだであったし、 ふたりが共に食事をすることは珍しくなかった。
 しかしロイはトレーとリザを交互に見遣ると、リザの方へトレーを押し戻す。


「君がすべて食べるといい」
「・・ですが、食べないとお体を壊します」
「食欲がないんだ」


 トレーがふたりの間を2往復したところでリザは手を止めた。薄暗い中でもロイの顔色が優れないことくらいは見て取れる。さらに重度の睡眠不足なのか、3日前よりも 隈が酷かった。
 いったい会わずにいた3日間になにがあったというのか、とリザの心臓は跳ねた。ここは戦場だ、喜ばしくないことなどいくらでも起こる。 リザは今までロイに会わずにいたことを後悔した。ロイはいつだってリザのことを案じてくれていたのに。
 リザはロイへ手を伸ばした。食欲不振も身体に由来する場合と精神に由来する場合とがある(もちろん両方からの場合もある)が、もし前者ならすぐにでも軍医に 診てもらうべきだ。だからとりあえず熱はないだろうかと、額に触れるのを躊躇ったリザはロイの手を取ろうとした。
 しかし、白く華奢な手が触れる前にロイはそれを避けた。その思いがけない反応に遭ったリザは眼を瞠る。


「触るな。血で汚れるぞ」
      っ・・!?」


 リザから視線を逸らすロイの眼は虚ろだ。
 リザは「触るな」と言われたことにもショックを受けたが、それよりも理由の方に動揺した。


      どこ、ですか・・?」
「は?どこってなにが            って、ちょ・・なにを・・・!」
「だから、どこなんです!?」


 冷たい言い方をしたという自覚があったロイは、リザがこれでテントを出るだろうと思っていた。しかし予想は外れ、リザは「どこだ」などと意味不明な発言をしながら ロイに詰め寄り、挙句の果てにロイの軍服を脱がせ始める。
 力では勝っていても動揺が大きかったロイは、必死なリザに敵わない。肩ベルトと上着のボタンを外されたところで漸くリザの手を止めることに成功した。
 だが、両手を拘束されたリザは不服そうな表情を隠そうともせずにロイを睨む。


「負傷箇所および程度は? 軍医には診てもらいましたか? 経過は? 無理をして傷口が開いたのですか?」
「え・・傷?」
「怪我されたのでしょう? 得物は銃ですか? 刃物ですか? 化膿の恐れがありますから傷口は常に清潔に・・・」
「ちょっと待ってくれ! 怪我って何の話だ!?」
「だって出血しているのでしょう?」


 話が噛み合ってない・・・とロイが感付いたのは少々遅かったがそのときだ。ロイは怪我なんて負ってはいない。自身の身体の状態は自身が一番よく知っている。 爆風を浴びるせいで煤と埃まみれだが、血が滴るような傷はない。
 しかしリザはまるでロイの傷口を探しているかのようにじっとロイを観察している。


      それにしたって、いきなり服を脱がそうとするか・・?)


 ロイの背中に冷汗が伝った。


「君が考えているような怪我はないからこれ以上暴れないでほしい」
「暴れてません!それに怪我していない状況でどうして血が出るんです?」


 リザも必死だった。ロイは自分のことに無頓着な傾向にあることを知っているからだ。
 ロイはリザの言葉を受けて苦痛に顔を歪めたが、しかし真実から眼を逸らせるはずがない。口にするだけの強さを、またロイは持ち合わせていた。


「だから、それは私が殺めた者たちの血だ。君だってあのとき血に汚れた私を拒んだだろう?」


 低く、何の感情も持たない声でロイは言い放つ。そうでもしないといろんな感情が複雑に絡み合って、最終的に情けない声になりそうだったのだ。
 ロイの言葉を聞いたリザは再び眼を瞠る。だが驚きに眼を瞠った前回とは違い、今回は呆気に取られたような間の抜けた表情。


「・・・・血・・こば・・・?」


 自分がロイを拒んだ? なんだその誤解を招きそうな言い回しは。そんなこと過去に一回だってなかったはずだ。 そもそもロイの戦闘スタイルでは返り血を浴びない。だから彼が血に汚れているところなんて見たことがないのに・・・
 まったく覚えがないことを言われたリザは困惑する。


「すみません。仰っていることがよく理解できないのですが」
「だから、3日前に私の手を振り払っただろう?」
「あ・・それは血が付いてしまうと思ったからで・・・」
「そうだろう。だからこれ以上血に汚れた私に関わるな」


 何かがおかしい・・・とリザは思った。リザとロイのベクトルは同じ方向を向いているようで、実は180度ずれている。
 確かにリザは3日前、左脚の感覚が麻痺して倒れそうになった自分を助けてくれたロイを突き飛ばした。今でもそのことに罪悪感を感じているが、しかしリザにも 理由があったのだ。


「あの・・・突き飛ばす以外に方法があったと思い反省しております・・」
「いや、妥当な反応だ。反省の必要はない」
「いいえ、いくら貴方の上着に血を付けたくなかったとはいえ、もう少し穏便な方法を採るべきでした」
「だから血を・・・・・え・・? 私の上着・・?」
「はい。焔の錬金術師が血のりを付けて帰営するわけにいきませんでしょう?」


 リザはあのとき撃たれた痕を10分ほどそのままにしていた。いくら浅いといっても薄い皮膚が破れた痕からはそれなりに血が流れ出てリザの軍服と外套を濡らして おり、ロイに抱きとめられたときもまだその血は乾いていなかったのだ。
 ロイは少佐であるのと同時に焔の錬金術師である。その絶対的な火力を以って制圧できない敵はなく、いまだにイシュヴァール人から一撃も受けていない。そんな ロイがいくら自分のものでないとしても服に血を付けていたら不安に思う国軍兵士が多いだろう。逆に敵は勢いづいて猛反撃してくるかもしれない。 ロイに抱きとめられたほんの刹那の間にリザはそこまで思い至り、咄嗟にロイを突き飛ばした。          これがリザの中での真実だ。
 そう説明を受けたロイは漸く合点がいった。今までの話の不一致も、リザが軍服を脱がせてまでロイの負傷を確認しようとした理由も。


「それで、貴方が言った『血で汚れたから触るな』とは一体どういうことなのですか?」
「・・・あー、その・・・・だから・・罪のないイシュヴァール人を殺した私に・・君は触れられたくないのだろうと思ったんだ」


 それがロイの中での真実だった。そして眼を逸らしながらポツリと告げたロイの言葉をリザは正面から受け止める。
 話の途中でロイの手から力が抜け、拘束されていたリザの両手はぽとんと床に滑り落ちた。


「・・・・私だって、たくさん殺しているのですよ?」
「いや、だが・・」
「数や手段の問題ではありません。私の手もとっくに血で汚れています。目を背けるな、前を見ろ、忘れるな・・・キンブリー少佐が仰ったことは残酷ですが正しいです。 私だって、人殺しなんですよ」


 リザは自分の手を見つめた。屈強な軍人男性よりも遥かに華奢だが、己の意思で動かせる手だ。そして『鷹の目』という異名をもつに至るまでイシュヴァール人を打ち抜いた 手でもある。
 そっと手を動かし、リザは無言でロイの右手を取った。ロイは一瞬ぴくりと反応を見せたが、振り払いはしない。それに安堵したリザは両手でロイの右手を包み込む。 ロイの手は大きくしっかりとしていて、触ると指の節がよく分かる手だ。そして気温が極端に低くなった夜でも暖かい。


「貴方は・・血で汚れた私の手を振り払いますか?」
「・・・・・・・・・いいや」
「私も振り払えません。理由は上手く説明できませんが・・血に汚れていても、暖かいままであってほしいと思います」


 リザの手は低くなる外気に合わせて冷たくなるようで、ひんやりとしていた。しかし冷たい表皮の奥は確かに熱をもち、ロイの右手にその存在を伝えている。
 ロイは恐る恐る左手を伸ばすとリザの両手を覆った。固く握手しているような格好はこの戦場にそぐわないものかもしれない。しかしそれでもロイとリザはしばらく無言で 手を     罪なき血にまみれた手を互いに握り合っていた。






 いつの間にか就寝時間になったらしく、テントの周りに人の気配が溢れてきた。殺していない気配はイシュヴァール人のものではなく、アメストリス軍兵士のものだ。
 何かを一心に確認するかのように握り合っていた手がゆっくりと解かれる。「それ、処分してしまおう」とトレー上の夕食を指したロイにリザは無言で頷き、またもや 無言で食事をとった。リザがいることを周囲に知らせるわけにはいかないからだ。
 しかしふたりにはもう会話は必要なかった。
 己の手に染み付いた罪なき血を交わした。それだけで十分だったから。






「明日も・・・・死なないでくださいね」


 ただ、リザがテントを出て行くときに残したこの一言が。
 今度はこの一言だけが、いつまでもロイの頭の中に響いていた。

















fin.

















2007/8/14 up