「え」 絵心 「…なんです?これは」 副官からの突き刺すような視線と共にこちらに向けられたもの。 それは… 「あ」 歪んだ字で走り書きがしてある紙の隅には… 「『あ』ではありませんよ。会議中に何をしているんですか、まったく」 黒い犬の絵がしっかりと残っていた。 「溜息をつかないでくれ、中尉。仕方ないだろう。軍議はつまらない内容ばかりで眠かったのだからな。寝ないためには、こう、何か気を紛らわせて…」 「だからといって落書きなどしないで下さい」 呆れている、明らかに声が呆れている。 今日の午前中に軍議があった。 そして、あのときは本当に眠かったのだ。 いや、今もかなり眠いが。 ―というのも、昨夜は研究書など読み漁っていて、気がついたら朝焼けが美しい時間帯になっていたからだ。 とりあえず仮眠程度に1時間くらい横になって出勤してきたものだから、とにかく、何かしていないと寝てしまいそうだった。 別段、絵に拘ったわけではない。 考え事でも何でもよかったのだが、研究書の反芻や構築式あたりは考えだすとしばらく還って来れなくなる可能性が高いのでやめた。 何も聞いていなくても、聴いている、もしくは聴いていた振りをするのは得意だと思う。 しかしまぁ、くだらない内容といっても軍議は軍議。 どうでもいい書類にまでいちいち目を通し、サインを入れるという日常と一緒だ、仕方ない、聞いといてやるか、と思って耐えることにしたのだ。 そこで落書きという形をとった。 絵は思考と別物で、ただ手を動かすだけでいい。 だが、身体の一部が動いているので、脳も何とか意識を保つことができる。 軍議の内容も(一応)耳から入ってくる。 む…十分じゃないか! 頭の中での思考が顔にでも出ていたのだろうか。 彼女はもう一度溜息をつくと、再び私の傑作に視線を移した。 「軍議の書類ではなく、メモ用紙に書いたんだ。問題はないだろう?」 そう、走り書き程度をメモする紙に。 「根本的に間違っているような気もしますが。…それにしても大佐、随分とかわいらしい絵をお書きになるのですね」 絵を見ながら彼女はクスリと笑う。 一瞬、眼を奪われてしまった。 彼女の柔らかい笑顔が…かわいい。 先ほどの瞬間冷凍光線とは大違いだ。 もう怒っていないらしい、内心ホッとした。 しかし、そんな自分の思考を読まれるわけにはいかないので、機嫌を損ねた風を装う。 「む…何やら引っかかる言い方だな」 片眉が上がった私に、彼女はくゆりと笑顔で振り返る。 「いいえ?ただ、錬金術師は錬成陣など綺麗にお書きになるので、写実画なども得意なのかと」 「思い込み、ではないのかね」 「アームストロング少佐はお得意ですよ?」 おいおいおい… 「少佐を基準に考えないでくれ」 何故か情けないセリフなうえに、声まで情けなくなったような気もするが、まあいい。 筋肉ヒゲダルマが世界の中心となれば、誰でも半径5kmくらい近寄れまい。 「そうですか。では今度エドワード君やアルフォンス君が来たときに確認します。“本当に錬金術師も絵が得意でないのか”」 そう言ってまた犬の絵に見入る。 やけに拘るな。 そもそも、錬成陣は頭の中で組み立てた錬成理論を図式化し、描きだしたものであって、写実とは何の関係もないと思うのだが… いや、頭の中での像を描き出すことには違いない。 だが錬成陣と犬の絵は何かこう、違わないか? やはり納得がいかなくて彼女の方を見ると、まだ絵を見つめている。 ………。 …もしかして、あの絵、気に入ってるのか? 何の前触れもなく、彼女がこちらを見た。 「大佐」 「…なんだ」 びっくりするじゃないか。 「もしかして、これ、ハヤテ号ではないですよね?」 「…悪いか?」 そうとも、あぁそうとも! ブラックハヤテ号とある意味すばらしい名前をつけられた黒い子犬だとも! 実を言わなくても絵は得意じゃないんだ!! だから人目につかないようなメモの、しかも隅に描いたというのに! …と。 「かわいすぎです、大佐」 彼女はとうとう声を上げて笑い始めてしまった。 クスクスという声が執務室に響く。 優しい笑い声だ。 さっきまで荒れていた胸中が一瞬にして静まってしまった。 優しい声だ。 もっと聴いていたいとも思うし、どこか恥ずかしいとも思う。 室内に広がる声に包まれて、まるであやされているような… 「そんなに笑うのなら、君も描いてみてはどうだね。お手並み拝見といこうじゃないか」 少し悔しいので、そんなことを言ってみる。 だが。 「いえ、遠慮しておきます」 やはりな。 彼女がそう言って断ることなどお見通しでもある。 だから、彼女の行動や表情に見ほれることはあっても、驚いたりなどしない。 なので、次の彼女のセリフには少し驚いた。 「大佐、この絵、私がいただいてもよろしいですか?」 「……え?」 今何て言った!? 目の前の彼女はまだ微笑んでる。 「君、散々笑い飛ばしてたじゃないか」 「はい、ですから、いただいて帰って、モデルのハヤテ号に見せてあげようかと。そしてまた笑いものにしようかと」 「ちょっと待てっ!」 「冗談ですよ。ハヤテ号に見せたいのは本当ですが」 「………」 思わず椅子から立ち上がってしまったではないか。 溜息をひとつ吐きながら、私はまた深々と座り込んだ。 「君が言うと冗談に聞こえなくて困る」 「それは申し訳ありませんでした。で、いただけますか?」 ちょっと期待で鳶色の眼がきらきらしているように見えるのは私だけか…? 嫌だと言えるハズないだろう。 「晒しものだけにはするなよ」 それだけは御免被りたい。 部下…特にハボックやブレダあたりに知られたら末代まで笑われそうだからな。 彼女になら笑われても何となく平気だが、野郎に馬鹿にされるのは腹立たしい。 「御意」 そう言って、彼女は敬礼をする。 頼もしい限りだ。 「そろそろ3時ですね。お茶でも淹れてきましょうか」 「ああ、頼むよ。コーヒーがいいかな。できれば濃い目で」 軍部自慢のうっすいコーヒーを可能な限り濃く。 でないと残りの就業時間、睡魔に勝てる気がしない。 わかっているのか、いないのか。 彼女は「わかりました」と答えて、部屋を後にする。 大切そうに犬の絵を持って。 あんなに笑顔でいてくれるなら、絵ぐらいいくらでも描こうじゃないか。 そう思ったりする、暖かい昼下がり。 fin. 2006/10/1 up |