大きな執務机の上で山脈を成した決済待ちの書類は、2時間で四分の一ほど切り崩された。 片っ端から手をつけてはいるし、一度も休憩していないし、処理するスピードも遅くない。・・・なのに一向に減る気配がないのは、一山が非常に大きく、また 情報量が桁外れに多いからだ。 いつものパターンからいけば、「こんなに目の前に積まれると気が滅入る。もう見たくない」 とか云って行方を晦ますのがセオリーなのだが、今日は例外の 日らしく、ロイは始終黙々と仕事をこなしている。そんな上官を目の当たりにして、書類の追加やら確認やら運搬やらで執務室を訪れる部下たちは訝しげな視線を 向けていくのだが、当の本人は気にも留めていないようで。 それがまた部下の疑問・・・というか、不安を煽った。 就業時間が半分は過ぎたような昼からでは到底処理しきれない量の書類を「今日中に」 と置いてきたというのに、 上がった雄叫びは「どいつもこいつも人使いが荒い!!」 だった。 「デートがあるのに」 とか「定時で上がるぞ」 ではなかったから、女性云々という理由で奮闘しているわけではないことは明らかである。 表情は機嫌がよくてニコニコ、どころか、むしろ目が半分据わっていて恐い。直属の部下の中では一番階級が低いフュリーはもちろん、 執務室でも平気でプカプカと煙草を吹かすハボックでさえ煙草放棄のうえ、用件が済み次第そそくさと退出するほどだ。 機嫌が悪いのに、黙々と仕事をするロイ・マスタング大佐 だからこそリザが「少し休憩しましょう」と云ってお茶の用意を始めたとき、男4人はリザの出方に期待したのである。 夢のあと 思った以上に疲れているのかもしれないな、などと考えながら、接客用のソファーに納まったロイは手にしたティーカップを眺めていた。 中でゆらゆらと揺れているのはリザが淹れた軍備え付けのお茶だ。 淹れたリザはというと、執務机の上を簡単に整理している。お茶を置く場所にすら困るほど机上が散らかっていたので、ロイを応接セットの方に 追いやって片付けていた。 執務室は依然として静かなままで。 ロイはぼんやりと思考の渦に呑まれていく。 (・・・久しぶりに集中していた) 時間を忘れるくらいに。 (疲れるのも無理はない、か・・) しかし、今日はあまり苦にならない。 (あいつらのためにもなるしな・・・) ロイが目指すものをよく理解している、部下たちのためにも。 ふう、と溜息を吐くと、少なくなった紅茶が一際大きく揺れた。表面に写ったロイの姿も歪む。 部屋が静かなものだから、溜息はリザの耳にもしっかり届いていた。ロイの方へ顔を向けて、しかし普段と変わらない調子でリザは声を掛ける。 「お疲れですか、大佐」 「まぁ、それなりにね。・・・心配しなくてもそれは片付けるよ」 「今日は処理速度が速いですから、このペースでいけばすべて今日中に終わります」 リザの云う“今日中”というのは“定時まで”ではなく“日付が変わるまで”を暗に示している。それを図らずも理解してしまったロイは、いささかうんざりとした表情を 浮かべた。 ヤル気がないわけではないが、さすがに残業は嫌だ。 「・・・本当にすべて今日付けで終わらせなければいけないのか?」 「明日には明日の予定がありますから」 「しかし・・」 だが、そこでロイは曖昧に言葉を切った。そして左手で頭をガシガシと掻きながら、 「わかった。君たちの期待を裏切るようなことはできないからな」などと云うのだ。それはいつものロイのようでいて、しかし拭いようもない違和感が残る。 リザは手にしていた書類を机に戻し、ロイへ一歩近づいた。 「大丈夫ですか?」 「・・・・何がかね?」 「転寝をされてから、ご様子がおかしいと感じました」 「私がか?」 「そうです。なにか・・・嫌な夢でも見られたのですか?」 感情を読ませない鳶色の瞳がロイを射抜く。 あまりに強い透明な光彩を直視することができなくなったロイは手元の紅茶に視線を落とした。彼女と視線すら合わせられないとは、と溜息が漏れる。 ゆらりと揺れる紅茶を眺めて、リザの発言を否定できなかったことに今更ながら気が付いた。 ロイはもう一口紅茶を啜る。 冷めた紅茶は苦味が増して、ロイを少しずつ現実へと引き戻した。 「 リザはじっとロイを見つめていた。あのときの夢だ、とロイが云った瞬間だけはサッと表情が曇ったが、射抜くような視線は変わらない。 ロイが見た夢 ほぼ一方的な殺戮。 噎せ返る、火薬と煙と血の臭い。 狙撃手として遠方からライフルを撃っていたリザでさえ引き金に掛けた指が震え、グッと歯を喰いしばって発狂しそうになる自分を圧し止めていたくらいなのだ。 兵士たちの先頭に立ってイシュヴァール人たちの死を網膜に焼き付けてきたロイの苦悩はどれほどのものだろうか。 「・・・・・大丈夫ですか?」 だからこそ、リザの口からはそんな言葉が漏れた。 しかしロイは是と返す。それは、ロイ自身が選んだ道だから。他人の弱さは赦しても己の弱さを赦せない、茨の道だ。 カップにお茶がなくなったのを契機に、ロイはソファーから腰を上げた。 仕事の再開を察したリザはティーカップを片付けようと応接セットへ寄る。 常であればそのまますれ違う二人だが、どちらともなく歩が止まった。昏くて冴えない漆黒の瞳と、明るくてまっすぐな光彩を放つ鳶色の瞳が交わる。 言葉はなかった。 視線が絡んで数秒後、ロイはゆっくりとリザの肩口に額をつける。細い身体を抱き寄せることはなく、ただ頭を預けるだけ。 突然の接触に動じることなく、リザはその場に立っていた。 「・・・中尉」 「はい」 「・・・・・・・30秒待ってくれ」 「・・はい」 提示された30秒という時間の真意をリザは問わない。 当然のことだがリザはロイが見た夢の詳細など知らないし、この30秒が一種の現実逃避であることはロイも重々承知している。 精神の乱れをリザが許容してくれるかどうかは賭けに近かった。 それでもなお静かに肩を貸してくれるリザに、ロイは感謝する。 信頼する部下たちにらしくないことを云い、らしくない質問を投げかけた。 彼らにいらぬ気遣いと心配をさせたことも気付いている。 リザには直接的に助けてもらい。 人として、上官としてまだまだ至らないことを痛切に思い知ることになったけれど。 しかし、それでも コチ、コチ、と、置時計が刻む秒針の音だけがしんと静まり返った室内に響いていた。 タイムリミットは迫る。 そして30までのカウントが終わり・・・しかし、ロイは自ら顔を上げない。 声を掛けるべきか、リザは逡巡した。 (・・・・、・・・もう少しだけ・・) リザはロイを支えたいと思う。 何があっても 「・・・大佐」 リザが逡巡している間も時計は規則正しく時を刻んでいる。 時を偽ることはいくらでもできるが、いつまでもこのままでいられるはずもなく、秒針が一巡りしたのを機にリザはロイに呼びかける。 「30秒です」 それは魔法を解く言葉だ。 「時間です、マスタング大佐。仕事の続きを」 狂っていた時間を修復する言葉 頭を起こしたロイの貌はいつもの貌で、リザは気付かれないようにほっと溜息を吐いた。 「そうだな、仕事だ」 あのときのヒューズの台詞そっくりなことを言うリザに少し苦笑いしつつ、ロイは書類の広がる執務机に戻っていく。 そんなロイの後姿を確認してから、リザは放置されたティーカップを片付け始めた。 「中尉」 ロイに呼ばれて、リザが振り返る。 そこには椅子に深く腰掛け、午後の暖かい光を浴びるロイが笑っていた。 そして、屈託のない笑顔で言うのだ。 「ありがとう、ホークアイ中尉」 それは純粋な笑顔で、裏には何の思惑もない。 しかしそんな笑顔とは裏腹に、『ありがとう』 には色々なものが含まれている。 気をつかって持ってきてくれた紅茶。 身動きひとつせずに貸してくれた肩。 浮上に要した60秒を30秒と偽ってくれた心遣い。 自分を放っていてくれる沈黙。 そして何より、一瞬立ち止まった自分の傍にいてくれたこと。 これら全てのことに感謝しての言葉だった。「ありがとう」 の、たった一言に・・・・・ 含んだ意味をすべて理解しているのか、リザもカップを片付ける手を止めて微笑む。ロイをすっぽりと包み込むような、やわらかい笑顔だ。 流れ始める、穏やかな時間。 執務室に注いだ光は、とても暖かかった。 fin. 2010/ 2/22 up |