そのことは私の中に狂った嵐を呼び、何もない闇の空間に独り置き去りにされた感覚を引き起こしたけれど、世界は特に変わらなかった。 特に、どころか、食堂のメニューひとつにさえ影響しなかった。世界は何ひとつ変わらなかったのだ。
      何ひとつ、とは言い過ぎか。実際は司令部内やイーストシティの一部で小さな波紋を呼んでいるが ・・・だからといって実生活に支障をきたす人なんて、私を除いて一人もいないと思う。
 「世界のすべてが色褪せて見える」なんて考えてしまう自分は莫迦だ。私もあの人も、決して世界の中心ではない。 分かりきった事実を改めて突きつけられただけなのに、被害妄想も甚だしいと・・頭ではきちんと理解している。
 でも理解しているのは頭だけで、心が付いていかない。


 私が副官を務める、黒髪の上官が結婚した。


 ただそれだけのことなのに、私は未だにみっともなく動揺している。














  操人形の涙














 彼が結婚して、もう1ヶ月になった。
 仕事をサボタージュしがちだった彼は今、真面目にも机に向かって大量の書類と格闘してる。
 決裁の期限ぎりぎりの書類を片付けるために頑張っている姿は以前からよく目にしていたけれど、できる限り書類を処理しておこうなんて神妙な心がけは結婚前には絶対に 考えられないことだ。
 彼は仕事を溜めなくなった。
 残業しないで定時に上がるようになった。
 まっすぐ自宅へ帰るようになった。
 以前と比べて、この変わり様・・・・・部下としてはありがたいと思うけれど、部下の仮面の下に潜んだ、意識したくもない女という一個人としては非常に複雑な心境で、 できるなら最初からやってほしかったとか、そんなに早く帰りたいんですかとか、よく集中力が持ちますねとか、そこまでして奥様に会いたいんですかとか、 私の今までの努力は何だったのよとか・・子供染みた批判が頭の中で塒を巻いて、今度は私の仕事が進まない。
 自分で作成した報告書の確認作業をしているだけなのに、何度も同じ行を読んでしまったりと、ありえないミスを連発しているのだ。
 今のところ彼は私の不調に気付いていない。
 私はそれに安堵し、そして失望していた。
 彼と私の繋がりは・・・こんなに浅いものだったのかと。




 彼の結婚が周囲に波紋を呼んだのは、彼が単なる女好きで遊びが激しかったからではなかった。
 女性に不自由しない、毎日違う相手を連れているとまで言われたロイ・マスタングがお見合いで結婚するなんて、誰が予想できただろうか。 部下の中で一番衝撃を受けたのはおそらく私だ。
 しかも、お相手が老将軍の孫娘だったことが驚きに拍車を掛けた。
 彼は軍のお偉方から見合いを勧められても、首を縦に振ったことがない。上を目指すなら政略結婚も手段の中に入れていい筈なのに、頑なに拒んできた。
 だからお見合いをしたことでまず驚き、さらに一回のお見合いで婚約してしまったことにまた驚いた。いわば二重の打撃だ、見事心のど真ん中に命中して、咄嗟に表面的な 「おめでとうございます」さえ言えなかった。
 軍事色を強めたブラッドレイ政権が倒れてから彼は大佐から准将に昇進していたのだけれど、婚約の1ヶ月後、つまり入籍とほぼ時を同じくして、マスタング准将は マスタング少将へと異例の昇進を果たした。この昇進は彼の実力と功績によるものだと一部の関係者は理解しているのだけど、私だってもちろんそう確信しているのだけど、 それでもやっぱり僻み心満載の人に言わせれば政略結婚でしかないという。
 ・・・・ちょっと「そうかも」と思ってしまう自分が悲しい。
 だが、彼の妻となった人は本当に綺麗な女性で、同姓の私ですらはっとさせるくらい存在感のある人なのだ。
 しかも彼が日頃好きだと公言して憚らなかった豊かな金髪、暖かい瞳の色。
 同じ金髪・鳶色の眼なのに、私とあの方でなんて差があるんだろうと会うたびに実感させられる。悔しいくらいに。
 だから、彼が溺愛するのは当然のことで、あの書類嫌いが大人しく事務仕事に従事するくらいだから、彼は妻を愛してるのだろう。だったらこの結婚は政略とは 言わない。せいぜいオプションで昇進がついてきた、くらいのものだと思う。




「大尉、顔色優れませんけど・・大丈夫っすか?」


 隣から聞こえた声にハッとした。
 ぎこちなく振り返ると、そこにいたのはブレダ中尉。
 東方から彼の部下であり、理不尽な命令で地方に転属させられていた彼らは皆、ひと階級ずつ昇進していた。だから肉付きのいい彼も、もう中尉。
 そんな彼らを彼がまた手元に呼び寄せたのだ、信頼できる部下として。


「大丈夫よ、気にしないで」
「ですが大尉は夜勤明けですよね。もう昼になりますよ。帰って休んでください」
「ありがとう。でも少将の仕事が順調にいってるから、一昨日の視察の報告書にも目を通してもらおうと思って」


 そうなのだ。今日私は夜勤明けで、本来なら日勤の者に引継ぎをして早々に帰宅できたのだ。
 それでも帰らなかったのは、報告書は早めに提出したいから。というのは建前で、本当はただ少しでも長く彼の傍にいれたら・・と思っての行動なのだけど。
 副官としての務めや、同じ軍人だからこそ共有できるものの存在こそが今の私を支えている。
 だから、平気。


「仮眠もとったから大丈夫。少将に報告書を提出してくるから、少し席を外すわ」


 彼が大佐から准将に昇進したときに仕事部屋が変わった。それまで部下と一緒の空間で仕事をしていた彼は専用の執務室を与えられ、今ではそちらで書類と格闘中だ。
 たかが隣。されど隣。
 薄い壁ひとつ隔てただけだというのに、彼は遠い。
 まだ何か言いたそうなブレダ中尉を残して私は仕事部屋を後にした。








 入室許可を得てから扉を開けると、彼はちょうど電話のダイヤルを回しているところだった。
 無言で報告書を提出するわけにいかないから、これは電話が終わるまで待たなければならないわけで、一秒でも長く留まれると嬉しく思うのと同時に、 蚊帳の外に置かれる悔しさと盗み聞きをするような気まずさを感じた。
 聞かれたくない話や電話相手なら入室を許可される筈ないのだから堂々としていればいいのだけれど。
 扉を閉めたまま、私はその場に立ち尽くした。


「・・・私だ。・・・・・あぁ、今日は帰りが遅くなりそうだから」


         電話のお相手は奥方か。


「そうかい?なら君がこちらへ来てはどうかな。執務室で一夜というのも悪くないと思うが・・・・・・・・・ははは、違いない」


 特定のなにかに焦点を合わせていない眼が、執務室に響く声が、優しい。
 彼の目には奥方の姿が映っているのだろう。こんなに優しさを全面に出すのは奥方に対してだけなのだから。
 彼は部下に対して惚気たり自慢したり、写真を見せたりするわけじゃない。
 でも、彼が奥方を大切に、真綿で包むように大切にしていることは態度でまるわかりなのだ。私が肌で感じてしまうくらいに。
 ・・・・・感じてどうする、と自虐的にもなるけれど。


「そうだな・・甘いものがいい。・・・・・・蜂蜜多めで頼むよ。・・・・あぁ、ではまた」


 間を置かずにカチャンと軽い音がして、受話器が元の位置に戻った。
 これであの電話は緊急時の連絡にも応えることができる。


「待たせてすまなかった。用件は?」
「一昨日視察しました武器製造ラインに関する報告書を提出しに伺いました。総務への提出は10日後ですが、なるべくお早めに責任者印をお願いします」
「わかった」


 私は報告書を、決裁順に並んだ書類の中の適正な位置に割り込ませ、角を軽く揃えた。
 広いマホガニーの執務机は決裁待ちの書類で溢れかえっている。
 政権交代とともに軍の上層部も一掃されたので、保身に身を削っていた狸爺が(一応)処理していた決裁書類が残った将校に分配されてくるのは至極当然の事。 政権打破に一役も二役も買った我らが上官にも等しく書類が加算され、忙しさは以前より8割増といったところだろうか。
 それでも根は優秀な彼は定時上がり、もしくは残業1時間程度が常だった。
 ここ5日ほど細々とした事件が立て続けに起こったから今日の書類の量は確かに平常より多いけれど、それでも電話しなければならないほど帰宅が遅れるとも考えられない。


「少将、体調が優れないようでしたら、こちらの山は明日でも大丈夫ですから今日は無理なさらないでください」


 最近の素行を省みるに、今日に限って彼が仕事をサボタージュすると思えなかった私は、仕事の効率が落ちる原因として彼の体調不調を考えた。
 2ヶ月間休みなしで働いているから、顔には出ていないけれど疲れが溜まっていてもおかしくないと思ったのだ。
 しかし彼は緩く頭を振って私の予想を否定した。
 ・・・だったら何だというのだ?


「体調が悪いわけではない。立て続けに大総統代理や将軍から呼ばれたものでね・・書類仕事を後回しにするだけだ。もちろんこれはちゃんと片付ける」
「私は聞いておりませんでしたが」
「だろうな、今話した。     そう怒らないでくれ、15分ほど前に連絡がきたばかりなんだ。隠すつもりはなかった」


 別に将軍から誘いがあったって私が怒る筋合はないし、司令部内くらい自由に歩いてくれればいい・・・行方知れずにならなければ、の話だが。
 というか、三十路を過ぎた男が幼稚園児の如く逐一自分の行動を副官に報告するのもどうかと思う。
 つまりは、急にいなくならなければいいのだ。そうすれば心配することもないし、必要なら護衛を付けられる。 さすがに会議や会談が入っているとき、書類の期限が間に合いそうにないときは無断じゃなくても困るけど。その前に執務机まで引きずり戻すけど。


「私は怒ってなどいません」


 そう、私は怒ってなんかいない。
 ・・・・・・ただ、仕事関係の話を副官の私ではなくて先に奥方へ伝えたことについて少し遣る瀬無さを感じているだけだ。
 表情に出しているつもりはないのに・・・・この人はどうしてこう目敏いのかしら。


「・・・・・・。まぁいい。ところで大尉、君は夜勤明けだろう?なぜまだここにいるんだね?」
「報告書を提出したかったので。帰るタイミングも失いましたし、決裁済みの書類をチェックしてから帰ろうと思います」
「いや、これはブレダでもできるから君は帰りたまえ。顔色が優れない」
「ですが・・」
「いいから帰るんだ」


 彼は部下にも優しい。奥方への優しさとは質が違うけれど。
 あぁ・・・そんな困り顔をさせたいわけじゃないのに。


「了解しました。退勤させていただきます」


 実は昨夜仮眠をとったものの、よく眠れなかったのだ。体が鉛のように重いと自覚してしまえば後は底なし沼で、一秒前よりも強く疲労が圧し掛かる。
 私が退勤の意思を告げると、彼は重々しく頷いてからすぐに手元の書類へと視線を戻してしまった。真面目に仕事を片付ける気があることを示しているのだろうか・・?
 でも下を向かれたら敬礼のしがいがない。「失礼します」と敬礼付きで退室するときも「ああ」と素っ気なく言われただけで、肉体的な疲れよりも精神的な落ち込みがひどかった。




























 職務の一環として昼間軍服を纏いながら市街に出ることは少なくないけれど、私服姿でとぼとぼ歩くのは稀だ。稀すぎて慣れない。
 食欲は皆無だったが何も食べないと体を壊してしまうから、込み合う食堂で軽く昼食をとってから司令部を後にした。 後は帰宅して休むだけだが、人込みに揉まれたせいで疲れが倍増した。
 街を行き交う人たちや軒を連ねる商店はつい先日の政権交代なんて全く無関係のように『日常』を過ごしている。
 私は確かに、これを守りたかった。ここに暮らす人々と、その暮らしを守ること。そして私の理想を体現してくれる上官を何よりも守りたかった。
 でも、最近調子が出ないなと思う。最近・・というか、彼が結婚してからだ。
 見返りがほしかったわけじゃない。私のことを見てほしかったわけじゃない。幸せになってほしくなかったわけじゃない。穏やかさを纏ってほしくなかったわけじゃない。
           なのに。なのに、脳裏にちらつく夫人の暖かい笑顔に、円満な空気を漂わせる二人に、胸焼けするくらいの嫉妬を覚えずにいられないのだ。
 心に巣食う黒くてどろどろした負の感情は日毎に質量を増して、私の心を塗りつぶす。振り切ろうとしても振り切れないもどかしさは蟻地獄さながらであり、さらに深みに 嵌る悪循環を繰り返した。特に今日みたいな、彼と奥方の甘い遣り取りを目の当たりにした日は酷くて・・太陽の下にいるのが不釣合いで笑えるくらい無様な顔を 晒していると思う。
 私は陽気な町並みに反して陰鬱な溜息を零した。


          が、ふと私は俯きがちだった顔を反射的に起こした。
 馴染んだ匂いが鼻腔を掠めたからだ。


 一瞬、司令部で仕事もしくは将軍と歓談している上官の顔が頭を過ったけれど、まさか脱走してきたということはないだろう。やると決めたことはキチンとやる男だし、 口うるさい副官と遭遇する可能性のある、私の自宅がある方へ足を向ける間抜なミスをする人ではない。
 案の定振り返った先に黒髪の上官の姿はなくて、私は小さく息を吐いた。


 だが次の瞬間、私は全身が強張った。見つけたのは上官ではなく、その奥方だったのだ。


 視線の先にいる女性は眼鏡姿に長い髪を束ねるといった装いをしているけれど、マスタング夫人だ。たとえ見慣れない恰好でも、羨望と嫉妬の雑じり合った眼差しで いつも捉えていた私が、彼女と他の女性とを見間違うわけがない。
 夫妻のご自宅はここから遠いのに、いったい何をしているんだろうと訝しんでいると、彼女は道端の電話ボックスへ入り、ダイヤルを回し始めた。自宅に電話があるにも 関わらず外の、しかもこんな遠いところで電話を掛ける必要性があるのだろうか。電話相手が出たのだろう、話し始めた彼女の口元を注意深く観察すると「ダイジョウブ」と 「コノサキノコウエンデ」は辛うじて読唇できた。
 何が「大丈夫」で、「この先の公園で」何があるというのか。
 疲労よりも彼女の動向が気に掛かった私は、褒められる行動でないと十分承知しながらも彼女の後を尾行ることにした。
 軍の特殊作戦に必要となるものだから、気配を断ち、足音を立てずに移動する術は身につけている。民間人の女性ひとり尾行するのは易いものだ。 後について3分も歩くと緑の生茂った公園が見えてきて、ここが「この先の公園」なのだと確信する。
 彼女は人目を憚るように、猫さながらの身のこなしで園内へと紛れていった。
 人の多い通りならともかく、特に用事のない身が園内まで尾行るのは無理があるだろうかと悩みつつ、なるべく自然に見えるよう気配を落ち着けながら私も公園に足を踏み入れる。 晴れた日の昼時だからか公園には予想よりも人がたくさんいて、昼食をとったり一時の休憩を楽しんでいた。逆に自分の身の置き場所に少し困るくらいだ。
 私は自分の居場所を決める振りをしながら彼女を探した。大きくも小さくもない芝生の公園に油断なく視線を巡らせると、強い日差しを遮るのに丁度よい木陰に彼女の姿を 認めた。すでに腰を落ち着け、持参したのであろう本を開いている。
 私も彼女を観察しやすい位置に腰を下ろすと、見せかけに軽く首を回した。仕事の疲れが溜まっているのだ。監視がてら筋肉の凝りを解したり、日光浴をしよう。 その方が公園に溶け込むだろうし。
 そう思い至って首を回し、肩を回し、伸びをしたところで変化が起こった。
 男が一人、彼女へと近付いていったのだ。
 男が金髪という時点であれが上官でないことは確実だ。ならば、ナンパだろうか。もし彼女ひとりで退けることができないようなら加勢しに行かねばと凝視する視線の先 では、男は軽く手を上げながら彼女へ話しかけている。
 一方彼女の方は穏やかに、そして少し困ったように男へ笑顔を向けながら何か話していた。 読みかけの本を閉じて隣を譲ろうとしている様子から察するに、先程の電話の相手・・・なのだろうか。
 こちらからでは男の顔が確認できないけれど、親しそうな雰囲気だけは伝わってきた。
 喉が渇いてひりひりと痛む。
 逆に掌はじっとりと汗ばんで気持ちが悪い。
 そうと決まったわけじゃないのに・・・・まるで不倫現場を目撃してしまったかのような心地悪さだ。
 男は彼女の横に座ることなく微妙な距離感で話を続けていたのに、しかし男が何処かを指差すと彼女は立ち上がり、男に肩を抱かれながら公園を出て行ってしまった。
 あまりの展開に唖然として声も出ない。でも、公園に凡庸と座っているわけにもいかず、私も慌てて公園を出る。
 逸る動悸を抑え、慎重に後を尾行た。傍から見れば二人は恋人同士だろうが、私から見れば異質そのもので思わず眉間に皺が寄る。優雅な二人の後ろを厳つい顔をした 女がこっそりと追いかける図を想像してしまい、鼻で笑いたくなったが我慢だ、我慢。
 それからしばらくして、こんなところで自分はいったい何をしているのかとの自問自答が頭を擡げた頃、ようやく二人の目的地がはっきりした。
 二人は・・・・少し裏通りに入った、安宿に消えていったのだ。
 確認した瞬間、私の足は動かなくなった。様子を窺うために隠れていた壁際に凭れたのは、内部で荒れ狂う感情を押さえ付けるのに精一杯だったとしか言いようがない。
 ホテルに踏み込むまでもなくこの後の二人について予想はできる。私だって子供じゃないし、だてに男社会の軍で生きているわけじゃない。
 だけど・・少将の傍で綺麗に微笑む彼女からは想像もつかなくて、でもこれが事実で、だったら本気で彼女を愛している彼はどうなるというのだろう? 否定と落胆と困惑と憤慨と焦燥と虚脱感と失望と・・・ありとあらゆるマイナスの感情が代わる代わる支配していくのを今はひたすら受け止めるしかない。
 壁に張り付いていたのが数秒だか数十分だか分からないけれど、ようやく動けるくらいのエネルギーを溜め込んだ私は、迷うことなく司令部へと踵を返した。




























 彼の執務室前まで来た私は私服のままだった。日勤者の終業にはまだ時間があるので不思議そうな視線をあちこちから浴びたけれど、 軍服に着替えるのも的外れな気がして行動した結果だ。別段後悔はしていない。ただ、服装云々というよりも、彼直属の部下に誰一人として会わなかったことに安堵した。
 重々しい扉をノックしても返事がなくて、彼は将軍のところへ行っているのかもしれないと仮定した私は黙って執務室へと滑り込んだ。 室内は廊下と違って、行き交う下士官や士官から不審の目を受ける必要がなかった。おまけに彼の気配が濃いから安心できる。
 そう思ったら涙腺が緩み、視界がぼやけてきた。
 胸が潰れるくらい苦しいのは、どの感情の発露に由るものなのか自分には分からないけれど。・・・ただ、言葉にできないくらいひどく苦しかった。


     と、突然頭の後ろから低く穏やかな声が聴こえた。


「おや・・大尉、帰ったのではなかったか?」


 不思議そうな顔をして入ってきたのは、言うまでもなく黒髪の上官だ。
 偉そうな口調、落ち着いた声、尊大な態度。どれをとっても我が上官だった。
 彼は部屋の中ほどで突っ立っている私を通り越して、手にした茶封筒を隙間のない執務机になんとか置くと、黙って振り返り私を見据える。その面差しは明らかに説明を要求 していて、私は少し言葉に詰まった。
 見てきたことそのままを彼に伝えてよいものか。彼を傷つけるんじゃないだろうか。今更そんな危惧ばかりが浮かんでは消える。


「大尉、どうした」


 力強い彼の声に促されて伏せていた顔を上げると、漆黒の瞳に正面からぶつかった。
 この瞳は、不思議だ。どんなときでも強さを湛え、真実から目を逸らさない。
 それに思い至って、私は漸く吹っ切れた。
 私は何を恐れていたのだろうか。本当に莫迦だった。奥方のことを伝えれば、彼はそれ相応の対応をするに決まっているし、私はそれを告げに司令部まで・・彼のところまで 戻ってきたのだ。何を躊躇うことがある?
 むしろ見てみぬ振りをする方が彼に失礼だ。部下として逸脱した行為だとしても構うものか・・!


「少将にお伝えたいことができましたので戻ってまいりました」


 鼓動が早まるかと思いきや、意外にも冷静に言葉を発することができる。
 喧騒とは壁一枚隔てた執務室に、私が大きく息を吸った音が響いた。


         奥様と、別れてください」


 私は言い切った。
 はっきりと、きっぱりと。
 だが彼は一筋の動揺すら見せず、ただ静かに「なぜ?」と問い返してきただけだった。その凪いだ反応は意外だったが、無礼な部下からの理不尽な要求に理由を尋ねるのは当然だろう。
 できれば口にしたくなかったが、なるべく事務的に、単調に、端的に事を伝えたいと思った。


「本日ヒトサンマルフタに、奥様と見知らぬ男性の密会を目撃しました。場所は12区サン・ウェル通りのホテルです。男性の特徴は金髪、長身。 位置関係から、男の顔は確認できませんでした」
「・・・・・そうか」


 ポツリと言葉を漏らした彼は、しかし平静そのものである。 彼が執務机に軽く腰掛けるように凭れたことで私と目線がほぼ同じになり、言外の言葉を伝える彼の眼もよく見えるようになったが、それは揺れてなどいなかった。
 あれだけ大切にしてきた奥方のことなのに・・こんなに反応が薄くていいのだろうか?


「それだけのことで彼女と別れろというのかね」


 ・・・・。
 「それだけのこと」って・・・彼にとっては大した意味がないとでも言いたげな口ぶりだ。しかも本気で言っているように聴こえるのだから、怖い。


「お許しになるのですか?」
「許すもなにも、今日のことは私も承知している。問題はない」


 言われて、カッと頭に血が上った。
 承知しているとは一体どういうことだ。
 見てみぬ振りをしていると?それを許せるのは     やはりこの結婚が政略結婚で、彼女とは婚姻関係にさえあればそれでいいとしか考えていないから?
 だとしたら惨めに思い悩んでいた自分の立場がない。
 彼の隣で穏やかに笑っていた奥方も、それを受け止めていた彼をも信じることができなくなりそうだ。あれほど守りたいと思った彼を・・!


「愛がなかったのですね」
「所詮お見合いだからと言いたそうな顔だな。・・だが君の予想は外れだ、大尉。私は彼女を愛してる」
「ならば全て許すのですか?そんなの体のいい言い訳にしか聞こえません」
「なにをそう頑なになっているのか分からんが・・・・私は本心しか言っていない」


 まるで少年みたいに真っ直ぐな心に惹かれたのに・・・。
 ひたむきに上を目指す姿が大好きだったのに・・・。
 どろどろした大人社会の裏舞台を覗き見てしまった気分に息が詰まった。
 顔を逸らしたいのに逸らせなくて必死にもがいていると、彼は漸く合点が行ったかのような表情を浮かべ、終いにニヤリと笑みを浮かべた。 その凡そ彼らしくない下卑た表情に寒気が走り、背に嫌な汗が伝う。


「私は彼女を愛しているよ。彼女も私を愛してくれている」


 ひどく、嫌な予感がした。
 歪められた唇から滑り出る声は聞いたことがないくらい甘くて、卒倒しそう。
 極度の緊張に胃はきりきりと悲鳴を上げる。


「そうだろう?リザ」


 これ以上なく艶やかで甘い彼の声に、別の意味で血の気が引いた。












    そうですね・・」






 あまりの静けさに失念していたが、彼は執務室の扉を完璧に閉めていなかった。 さらに悪いことに、私は彼へと全神経を集中していたため他の気配に全く気付けなかったのだ。
 彼の問いかけが終わるか否かの瞬間に背後を振り返った私は、扉の向こうに半分隠れるようにして佇む人影を確認し、言葉を失った。
         マスタング夫人だ・・。
 眼鏡を外し髪を下ろした通常スタイルに戻った奥方は氷のような無表情を貫いている。瞳には漣ひとつ立っていない。
 それがむしろ私の動揺を浮き彫りにして痛かった。
 名を呼ばれた彼女が彼の傍へ行くと、彼は従順に従った細腰に逞しい腕を絡みつかせ、彼女の薄い肩越しにこちらを見遣る。悪戯が成功した無邪気な子供と愚者を嘲る 高慢な大人とが混在する彼の視線を一身に浴びて気が狂いそうになったが、彼はそんな私の心中もお見通しなのだ。気を抜いたら崩れ落ちるのは確実。そんな醜態だけは 晒したくない。


「順を追って話そうか。そうだな・・・・二十日ほど前に、ある将軍の汚職疑惑が浮上してね、君には知らせず内密に調査を進めていたんだ。そして、 前線から離脱しても彼女が主要戦力であることに変わりはないから、外でいろいろと諜報活動をしてもらっていたんだよ」


 その言い聞かせるような穏やかな声とは裏腹に、抱き寄せた細腰をゆったりと撫でる節くれ立った大きな手はいやらしいくらい男の手だ。
 すかさず奥方が叩き落としてしまったけど。無類の狙撃手として『鷹の目』の異名をもつ彼女に、怖いくらい睨まれてるけど。


「昼前にもう一人の忠犬から連絡があったから、彼女に電話したのさ。『来い』、『南』の指定場所で『ハボック』に会え、と。そして君は彼女が無駄に背の高い金髪ひよこ頭 と会っている場面を目撃した。・・・ちなみに、あのホテルを使えとハボックに指示を出したのは私だ」


 奥方からの突き刺さる視線を受けても、彼はさらりとかわして言葉を続ける。


「だが、長かった極秘調査もこれで終わりだ。ブレダたちの報告書と、リザとハボックが集めた証拠の書類・・これだけ揃えば十分だろう」


 先程手にしていた茶封筒を一瞥し、愉快そうに眼を細める彼。
 ・・・・すべて私ひとりの滑稽で身勝手な勘違いだったのだ。
 顔から火が出るくらい、恥ずかしい。でも、それだけでは終わらない。
 軍人としての第六感が頭の中で警鐘を鳴らしている。


      ところで、私がなぜ今回の極秘任務から君を外したか分かるかい?」


 話の冒頭で薄々感付いていたけど、言いたくない。聞きたくない。


「あぁ、君の予想通りだよ。汚職疑惑の対象になったある将軍とは・・・君が私のところへ来る前に副官を務めていた、ミハエル・ターナー准将だ。 副官だった君にも嫌疑が掛けられていたので探らせてもらったが、不正を微塵も許さない性格の君は一切無関係、扱いに困ったターナーに移動させられたのだと判明した。 つまり、シロで決着がついたのだよ。お咎めはない。おめでとう」


 まったくひとつもおめでたくない。
 彼の唇は奇妙に歪められているのに、眼が笑っていない。
 気分はすっかり蛇に捕食される蛙だ。逃げ出したい。




「それで、君は一体何に対して怒っていたのかね?ハンナ・ゴートン大尉」




 ・・・・喉が潰れて声が出なかった。
 薄く開けた震える唇からはひゅうひゅうと乱れた呼気が漏れるだけだ。 空気が重々しくて耐えられない。
 上官の質問に沈黙を返すのは不敬罪だと理解しているけれど、頭の中に霞がかかって適切な言葉が見つからない。
 傍から見た私の顔は、おそらく青を過ぎて白くなっているだろう。


「リザが副官から外されたときから君に副官を務めてもらっているが・・・・あれほど感情を顕にした君を始めて見たよ」


 そうだろう、当然だ。いつも意識して冷静を装っていた。
 前任のリザ・ホークアイのように振舞わなければ、すぐに副官から降ろされると思ったから。
 誰よりも近い位置にいるために、女であることを極力切り捨てたというのに・・!


「あぁそうだ・・・近々、軍の大規模な編隊改正が行われるのは君も知っていると思うが、今度からブレダを正式な副官に就けようと考えている。 君は軍法会議所から事務処理能力を買われていてね、是非とも移動してきてほしいと要請があったのだが・・・どうしたい?」


 失望されてしまったのだろうか。先の言葉は暗に『お前は女だ』と聞こえるし、今の言葉は『もう必要ない』と同義だ。
 だったら選択肢なんてないではないか。


「・・・謹んで受けさせていただきます」
「うむ。では書類を揃えておく。詳細はまた後日説明しよう」
「了解しました」


 彼の腕の中で、リザ・マスタング夫人が呆れ顔をしている。
 何に対してそんな顔をしているのか私には計り知れないけれど・・・・・私が彼に向けていた感情や、彼女になりたくて、でもなれなかった愚かな女の結末や、 彼女にしてしまった愚鈍な侮辱に気付かないほど鈍い女性ではないことは確かで、居た堪らない。


「疲れているところを報告ご苦労だった。あとひと月は私の副官として忙しい日々を送ることになるが、よろしく頼む」


    そんな労いの言葉なら、ほしくなかった。


「また明日」
「・・はい、失礼致します」


 指先が震える敬礼はまるでお遊戯みたいで、眼が熱くて。
 執務室を飛び出した私は、方向も分からずに勢いよく駆け出す。




 それは確実に、私の中でなにか大切なものが終わりを告げた瞬間だった。




































































「蒼白になって震えていましたよ、お気の毒に」
「君が不倫を疑われたんだぞ?しかも相手はハボックときた!・・・男だったら燃やしてやったところだ、辛抱したと思わんかね」
「それは貴方があんなホテルを指定するからでしょう?」
「ぅ・・・だが、どうせ君もハボックのやつに肩を貸して往来を歩いたんだろう?」
「もちろんです。まだ彼は杖なしでスムーズに歩けないんですから、肩を貸すのは人として当然です」
「そういう行動が周りの誤解を生む種になるんだ」
「そういう貴方も仕事中、彼女に思わせぶりな視線でも投げていたのでしょう?」
「ば・・そんなわけないだろう!ただ髪と瞳の色が君と同じだから、たま〜にしみじみと眺めていただけだ」
「ほらやっぱり」
「何がやっぱりだ、何が」
「純真な女性を揶揄って遊んだんじゃないですか」
「それは断じて違うぞ、リザ。私には君がいるのだから遊びなど、必要ない」
「嘘は口にしない方が   っ、・・・・んんっ・・ぅ・・・・・ゃ・・・はっ・・・・・っいきなり何するんですか!」
「リザ・・私は本心しか言ってないと、さっき聞こえただろう?」
「・・・では、『弄んだ』ということですね」




      操人形の本体は消えてしまい、彼の手には切れた操糸が残るのみ・・・








「だから、その言い回し止めてくれないか。これでも彼女のことは部下として大切にしていたのだよ?」


































fin.

















2007/6/24 up