青空ばかりが際立って、そのじつ身を切られるような寒さに耐えるしかなかった冬の気配もようやく緩んできたようだ。 換気のために開け放った窓からフワリと舞いこんできた梅の香りに、C.C.は表情を和らげた。 ルルーシュの誘いでC.C.がおでん屋の暖簾をくぐってから二ヶ月が経とうとしている。 穏やかさで満たされた日々は長かったようで短く、しかしまるでここが生家であるかのように感じるほど馴染んでしまった。それはひとえに迎え入れてくれたナナリーの人柄に依るところが大きい のだが、昔から兄妹をよく知る下町の人々があれやこれやと騒ぎながら好意的にC.C.を受け入れてくれたことも精神疲労の軽減に一役買っているのだろう。 その一方、もし四面楚歌であれば唯一の助けとなるはずの婚約者は多忙につき、あまり会話を交わしていないというのが現状だった。 賭場仲間にツケとして貸していた金をほぼ回収し終えたルルーシュは、今度はおでん屋の戦略担当として動いている。二号店開業に向けての物件探しや費用算出などに加え、とあるコンビニ エンスストア・チェーンと提携し、次の秋を目処におでん屋ナナちゃんの味を全国展開させる打ち合わせの真っ最中なのだ。 味に絶対の自信があるとはいえ地域によって好まれる味というものは当然あるし、特有のおでん種との相性も検討しなければならない。また、コンビニのアルバイト店員でも確実においしいお でんが再現できるよう具材を改良するためのアドバイザーも務めることになってしまって、基本的に昼間は各関係者との打ち合わせ、帰宅してからは二階でおでん種と睨みあい、という日が続いている。 当然のことながら、結婚は口約束のまま、話はまったく進んでいない。 それでもC.C.は気にしていなかった。 ルルーシュが集中しているときに見せる、やや眉根を寄せた真摯な貌を眺めているのは好きだし、それよりなにより、法的な結びつきはなくとも、ふたりの間に確固たる繋がりがあることを実感できるようになったからである。 例えば、ひどく阻喪した様子で無言のままに縋られたとき。 あれは一ヶ月ほど前、ルルーシュが好物のプリンすら買い忘れて帰ってきたときのことである。抱き合っているところを例によってしっかりとナナリーに目撃されてしまい、『仲がよろしくて私も嬉 しいです』程度の感想を聞かされると覚悟していたC.C.は、しかしナナリーが少し困惑した様子で「お兄さまがあんなに落ち込んでいるところ、初めて見ました」と告げたものだから、逆に驚いたのだ。 明言されるまでもなく、それは信頼の顕れで。 ・・・いや、別にルルーシュがナナリーを信頼していないと云いたいわけではなく、それでも兄として格好がつかない姿は見せたくないものなのだろうと考えればこそ、あのプライドの高いルルー シュがC.C.を特別な存在として受け入れているのが分かるのだ。 また、例えば、当然のようにC.C.の居場所が用意されているとき。 これはつい先日の話になるが、コンビニエンスストア・チェーンの商品開発チームの担当者とその上役がおでん屋に挨拶に来たときのことである。社長兼店長であるナナリーと、今後打ち合わ せを進めていくルルーシュのふたりだけで応じるものだとばがり思っていたC.C.は、ルルーシュに誘導されるがまま、ごく自然に商談の第一歩に立ち会ってしまったのである。 なぜ私が此処に、と思う反面、自分という存在を何気なく肯定してもらえることが嬉しくて、そこで改めて大切にされていると知ったのだ。 だから、C.C.は現状に何の不満もないのである。 尤も、そういうことに関してはとことん鈍い男ではあるけれど、妙に律儀というか、拘りを見せる面もあるから、コンビニ進出が成功し、遠からず実現する二号店が軌道に乗ったあたりで改めて 結婚の話をするだろうと予測している。そのときに浮かべるであろうルルーシュの、途方に暮れたような、困ったような、でもやっぱり不本意そうな貌まで想像できるのだから、可笑しなものだ。 「ん・・・こんなものか」 不意に零れた吐息に漣立った味噌汁に頓着することなく小皿を傾けて味見を終わらせたC.C.は、つまみを捻ってガスを止めた。 ここ最近、家事はC.C.の担当になっている。 それは兄妹がおでんに掛かりきりになっているからなのだが、ふたりが野望実現に向けて奔走する姿を見ていて力になってやるのも悪くないと思った結果でもあるので、案外楽しくやっている。 ちなみに今日の晩御飯は、鰆の照り焼き、揚げだし豆腐、蕪の煮物、ホウレン草の白和え、自家製たくあん、豆腐とワカメの味噌汁、そして白ご飯だ。 おでん屋が18時開店のため、晩御飯は毎日17時からと決まっている。だからこそ時間通りに障子戸を開けたのがナナリーだと思ったC.C.は、しかし直後に聴こえた「ただいま」の低音に、蕪を盛り付ける手を止めた。 「おかえり、ルルーシュ」 戸口に立っていたのは、いつもより帰りが早いルルーシュ。 その姿を見止めたC.C.は貌を綻ばせた。 3人で食卓を囲むのは久しぶりだったからである。食事中に見境なくお喋りに興じる者はひとりとしていないが、それでも独りより2人、2人より3人で食事する方が楽しいに決まっているし、作った甲斐もあるというものだ。 表面的には分かりにくい嬉々とした貌で蕪に向きなおって、しかし不意に伸びてきた手にお玉を奪われたC.C.は、瞬間凍結した無表情でルルーシュを振り返った。 鉢をちゃぶ台に置くルルーシュが「盛り付けに風情がない」と呆れ声で文句を云っても、曖昧な返事しか返せない。それくらい右手の中の物体に気を取られていた。 「・・・・・、・・・ずっと嵌めておけ」 ナナリーを呼んでくる、と云い置いたルルーシュが静かに閉めた障子戸が、それでも小さくパシンと音を立てたのを合図に、C.C.はちゃぶ台へ寄って、へたりと座り込んだ。 青いリボンが掛けられた、掌サイズの白い小箱。 その中から出てきたのは濃紺のベルベット貼りのケースだ。 底面は円形。そのまま円筒状に伸びた側面は、しかし中ほどから、ふっくらとした弧を描くドーム状の上面と一体化している。 こういう入れ物の中身は間違いなく宝飾品であることも、大きさからして指輪かピアス程度の小さなものしか入っていないことも充分解っていた。・・・解っていたけれど、それでも実際に中身を確 認したC.C.は息を呑んだ。思わず蓋を戻しそうになって、でもそこはなんとか押し止める。 「・・・・・」 中身はやっぱり、指輪だった。 捻りが加えられたアームの片側は途中から二本に分かれ、柔らかな曲線を描いて交差する一方、一部は石座の役割も果たしている。材質はやさしい色合いから察するに、ホワイトゴールドだ ろうか。センターのダイヤモンドは大きくもないが小さくもなく、華奢なアームとのバランスを考慮すれば最良の大きさだ。二股アームの反対側にはサイドストーンが一つあしらわれていて、全体的 に凛とした雰囲気のリングに可愛らしさを添えている。細くて長いC.C.の指に華奢な印象の指輪では貧相に映るかと思いきや、捻りの効いたデザインによって指輪自体に幅が生まれているため、指元でパッと華やいだ存在感を示した。 「・・・・・・・・・・」 しかし面白くないのは、逡巡の末にようやく左手の薬指に嵌めてみたというのに、それこそ寸分の狂いもなく完璧にC.C.の指へ納まったことである。・・・尤も、バニー時代の貢物の中には無理に 採寸された上に無理に押し付けられた迷惑甚だしい指輪が数多くあって、それらを定期的に処分していたルルーシュがサイズを把握していても不思議はないのだけれど。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 だが、さらに輪をかけて悔しいのは、涙腺が緩みかけてしまうくらい嬉しく感じていることだった。 今もきっと同じだ。 進んで指輪を用意するはずがないルルーシュが、指輪を用意したのである。 縁もゆかりもない男から贈られた指輪とは、まるで比べ物にならない。 持ち上げる高さを変え、角度を変え、距離を変え、穴が開くのではないかと思うくらい熱心に左手の薬指を眺める 「おい、先に食べるぞ」 「・・・ナナリーは?」 「新しいがんもどきの講評を熱心に聴いている。ロロもあれでなかなか厳しいからな」 そう云って真っ直ぐにガス台へ向かい、味噌汁を装い始めるルルーシュの態度は至って普通。パッと聞いた限りでは、声色も普通だった。だからこそルルーシュに背を向けたまま座り込んで、 胸元に押しつけた左手を右手で握りしめている自らの行動にC.C.は羞恥を煽られたりしているのだが、どうも感情を・・・特に嬉しいだとか感謝といった正の感情を言葉にするのは苦手で、さらに恥ずかしさが増していく。 そうこうしているうちに目の前に味噌汁の椀が置かれ、さらにはご飯を盛る気配までしてきたものだから、C.C.は正体不明の焦燥に背を押されて声を絞り出した。 「ルルーシュっ・・・ゆび、わ・・」 「っ、・・・・・なんだ・・?」 その瞬間に走り抜けた、ルルーシュの動揺。 それに敏感に反応したC.C.は、ここぞとばかりに形勢逆転を試みようとした。相手を揶揄って遊べる状況になると、急に心の余裕が回復するからである。・・・・しかし、振り返った先にいつになく 緊張したルルーシュの後姿を見つけて、C.C.は喉を詰まらせた。 だからC.C.は再びルルーシュに背を向けて、こう続けた。 「結婚指輪は私も一緒に選びに行くからな」 「・・・・・・・・・は?」 緊張に満ちていた場の空気が崩れる。C.C.がその出来に満足していると、とことん鈍い男は「気に入らなかったのか?」などと訊いてきたものだから、いっそのこと「そうだ」と嘘で返してやろうか とも思ったのだが、後々のことを考えると得策ではないので止めておいた。 代わりに、「一緒に行くからな」と念を押す。 ご飯を2膳盛って定位置に腰を下ろしたルルーシュの貌は、微妙に複雑なものだった。 「・・・お前ひとりで行けばいいだろ」 「さすがルルーシュ、分かってないなぁ」 「どういう意味だ」 「そのままの意味だが?」 C.C.のささやかな願いなんて、ルルーシュはちっとも分かっていない。 一番に招待するべき親も親戚もいないから、C.C.には元より結婚式を挙げるつもりが微塵もなかった。唯一ナナリーを除いて似たような境遇にあるルルーシュも同じ考えだろう。 だけど、 それくらいの我儘は許されると、信じている。 「さあ、早くナナリーの本当の義姉にしてもらおうか」 だから、女王様のようだと称された笑みをわざと浮かべて、C.C.は左手を差し出した。 一方、散らかったままのリボンやら小箱やらを片付けていたルルーシュは手を止め、一瞬だけ呆けた貌を晒した後、ふっと表情を改めた。 それはどこか悪役めいた、憎らしいほど自信に満ちた貌で。 C.C.の手を取る仕草は恭しく、しかし、「二ヶ月で片を付けるさ」と、力強い低音が部屋を満たす。 「期待してるぞ、ルルーシュ」 「 そう云いきったルルーシュは指輪ごとC.C.の薬指の付け根あたりを親指で一撫でして、それからゆっくりとそこに口づけを落とした。 思いもしなかった行動と唇のリアルな感触に、C.C.の心はざわりと震える。 言葉や態度より雄弁に真実を語るルルーシュの瞳は、確かに穏やかだったから。 瞳いっぱい自分を映す紫水晶にルルーシュといる未来を垣間見た気がして、いつしかC.C.は偽りのない本当の笑顔を返していた。 |