下町の日々・1





 可能な限り足音を顰めているというのに、それでも特有の音が響いてしまうのは、それが金属製の薄い鉄板のみで造られているからだろう。
 非常に古いアパートの、2階へと続く外階段。
 塗装がボロボロに剥げた手摺に今日も辟易しながら、ルルーシュは目的の部屋を目指していた。


 ナナリーが寝付いたのを見計らい、こっそりと実家のおでん屋を抜け出してきたのが30分くらい前のこと。終電もすでに出てしまった後だったため仕方なく歩いてきたのだが、位置的には隣駅の すぐ近くなので、当然のことながら歩けない距離ではなかった。
 実は、これまでもおでん屋には頻繁に足を運んでいた。最愛の妹を心配する兄心は家を出た当時も今も変わりはなくて、ナナリーの息災だけはこっそりと自分の眼で確かめていたのだ。
 “灯台下暗し”とは、まさにこのこと。
 ルルーシュはずっと、隣町のボロアパートを拠点に世界征服の下準備を進めていたのである。


 体当たりをすれば破れてしまいそうなベニヤ合板のドアの向こう側はルルーシュの予想と違わず、うすぼんやりと明るかった。手探りで施錠して、擦り切れた畳の上を横断する       と 言っても狭い部屋だ、ちゃぶ台に足をぶつけないよう注意さえすれば、ほんの数歩の距離で事足りる。
 今日はカーテンを閉める気力もない。
 やや乱暴にドサリと腰を下ろすと、ルルーシュはすぐ隣の黒い塊に手を伸ばした。・・・いや、逆光によって輪郭が黒く浮き彫りになっていただけで、実際は黒と無縁のものである。
 掛け布団に半分以上隠れた、小さな後頭部。
 薄暗い中でも光をよく集める艶やかな翠の髪をそっと一撫でしたルルーシュは、溜息を吐きながら瞳を閉じた。
 瞼の裏に蘇るのは数年前の記憶だ。
 彼女と出逢ったのも、今日のように寒い夜だった。
 おでん屋の5m手前の道端に転がっていた見知らぬ女。暖かそうなダウンジャケットを羽織っていたものの、凍死する可能性が高かったため仕方なく保護を試みて、即後悔した。彼女に肩を貸 して隣町まで延々と歩くはめになったのだ。そしてたどり着いたのが、まさか世話になるとは当時 考えもしなかった、このボロアパートで。翌昼、酒に潰されていたという彼女にさんざん説教したルルーシュは、そのとき断片的ではあるが彼女の過去と現在を知って、決意した。
 世界を手に入れる、と。
 ナナリーの未来や、都市開発によって脅かされている下町の明日を想って、ルルーシュは以前から何かを為さなければならないと強く感じていた。しかし、あと一歩というところで踏み出せず、 代わり映えのしない毎日を送っていたのだ。
 それを一瞬にして、鮮烈な日々に変えた彼女。
 家族でもなければ、友人という関係でもない。ましてや恋人という表現などまったく似合わない。 それでも何故か、彼女が居るこのアパートが帰る場所になっていた。野望が現実のものとなるまで変わることはないと思っていた。
 それなのに        ・・・

(・・・ナナリー・・)

 勝負に負けてしまった。
 最愛の妹は逞しくも『おでんで世界征服』を本気で実現しようとしているようで、見たこともないくらい活き活きとしたナナリーを目の当たりにしてしまったら、無下に世間の厳しさを説くこともできなかった。
 世界征服はナナリーのためでもある。しかし、当のナナリーは自分で前を見据え、次に進もうとしていた。ルルーシュをも計画に組み込んで。
 必要とされていることについては喜ぶべきなのだろう。それでも手放しで歓迎する気にはなれずに、書置きを一枚残して再び出てきてしまった。
 勝負には負けたけれど、これからについてはまだ迷っている。
 自らのやり方で世界を手に入れたい。そして        自らの手でこの歪んだ世界から解放してやりたい女がいる。これだけは、変えようもない事実だから。


 うすぼんやりと明るい部屋の中。
 意地と矜持と良心が渦を巻く、非常に複雑な胸中を抱えながら、ルルーシュはもう一度盛大に溜息を吐き出した。




  第8期拍手 (11月18日〜11月19日)

  ルル→シー(?)