交われば黒 扉をくぐると、そこはまったくの別世界だった。 見渡して、右から順にベッド、チェスト、デスク、ソファー、テーブル、埋め込み式の本棚とタンス・・と続く。Cの世界が幻想的な美術館だとすれば、ここは一個人の私室と表現するのが相応しいだろうか。 現実世界であれば広い部類に入るのであろうこの部屋は、しかし記憶を管理する固有空間であることを考えれば驚くほど狭い。なにしろ、空間の端から端までが一望できるのだ。コード保有者 の精神構造が具現化した亜空間の様相が千差万別なのは当然と云えば当然だが、空間に限りがないCの世界では考えられないことである。 おまけに今度のコード保有者は現実世界の外形を正しく記憶していたようで、物理的法則を無視した事象が起こることもない。 宙に浮いた額縁などひとつも見当たらない空間をゆっくりと見渡した女は、また一歩足を進めた。 記憶の管理者になったばかりの男から『息抜き』に誘われたのは、つい先ほどのことである。 時間に強い干渉力をもつC系統のコードに対し、V系統のコードは空間の制御に長けている。その能力によってあっさりとCの世界へのパスを繋げてしまった男は暇を持て余しているのか、頻繁 にCの世界を訪れていたのだが。 いよいよCの世界にも飽きたのか、今度は女を自分の固有世界に招待したのだ。 コツ、と小気味よい低音が響く。フローリングの床はどうやら大理石の床よりもヒール音を抑えるらしく、女が一歩踏み出すたび、耳に障らない程度の音が返った。 落ち着きのある内装と調度品。 飾り格子の入った大きな窓の向こうには木々の緑と建築物が見える。同じ窓がいくつも並ぶその建築物は横に長く、まるで城の一部であるかのように美しい壁面が続いていた。 ここは2階のようで、見下ろせば、煉瓦と緑とで整然と整えられた道が横一直線に延びている。 「・・・・・・」 整合性のとれないところなど一つとしてない、まさしく現実世界のような空間。 もしかしたら外に出られるかもしれないとさえ思わせる完璧さに、女はめずらしく興味を惹かれた。何百年もの間同じ景色の中を行き来していた彼女にとって、この部屋もそうだが、外は未知の世界に等しい。 女は無言のまま踵を返し、男の脇を通り抜ける。 この部屋に一箇所しかない出入り口の前に立っても、男は制止する様子すらない。 「・・・?」 手を掛ける必要もなく自動で開いた扉をくぐったその先は、先ほどの部屋とはまったく結びつかない空間だった。 先ほどの部屋が個人の私室だとするならば、こちらはリビングのような部屋だ。 部屋の中央にはコ字型に配されたベンチソファーと珍妙な形状で立つテーブル、奥には可動式の梯子を掛けた書架、そのさらに奥には小部屋が見える。しかし窓ひとつない金属製の冷たい壁 といい、紫を基調とした内装の配色といい、斜めに切られた天井に直接取り付けられた武骨な照明器具といい、こちらはひどく無機質な印象を抱かせる。 あまりに違和感が残る差ゆえに、現実世界ではそれぞれ別の場所にあったふたつの疑似空間が無理に結び付けられているのだと女は悟った。 別に驚くことはない。ここは記憶の管理者が創造した亜空間なのだから、風景がいきなり変わることなど往々にして在る。むしろ壁と扉で仕切られているあたりが几帳面なあの男らしいとさえ思 いながら、女は何事もなかったように歩みを再開した。 この部屋には正面にも扉がある。どこに繋がっているかは未知数であるが、たとえ迷子になったとしても管理者が迎えに来るだろう。それも管理者の務めのひとつだ。Cの世界で常に歩き回って いる彼女の足は止まることなく一直線に扉へ向かう。 しかし正面の扉にたどり着く前に右の扉が開き、女は足を止めた。 女は気付かなかったが右手側にも扉があったらしく、彼女の動きにセンサーが反応したようだ。両開きの自動スライド扉は正面に見えるものより大きく、扉の向こうにはもう一枚扉がある。 正面の扉をちらりと見遣った女は、しかしポッカリと口を開けた右の扉に足を踏み入れた。女の動作に反応して、二枚目の扉もすぐに開く。 「・・・・・・・」 彼女が足を踏み入れたのは、初めに通された部屋そのものだった。空間の繋がりに明らかな矛盾が生じているが、彼女をここに連れてきた黒髪の男がいるのだから初めの部屋で間違いない。 男は部屋の右奥に置かれたデスクでパソコンに向かっていた。 記憶の管理から現実世界の情報収集までこなすそれは、男がよくCの世界に持ち込む魔法の箱だ。 男は画面を見つめたまま女を顧みもしないものだから、もしや入室に気付いていないのかとさえ思ったが、しかし気付いてもらう必要も感じなかった女はゆっくり部屋を見渡し、手近にあったベッ ドに腰掛ける。部屋には3人掛けのソファーもあるが、何故だかベッドの方が具合がよかった。 朝夕どころか『疲れる』という概念がないCの世界には、当然ながらベッドなど存在しない。だから、というわけではないが、女は数百年ぶりにベッドへ横たわってみた。程よくスプリングが利いた ベッド。横臥した状態で頬に当たるシーツの触れ心地がよく、まるで以前から知っていたかのように身体に馴染む。 現実世界の自分は現実世界にあるこの部屋で過ごしたことがあるのかもしれないと女が考えていたちょうどそのとき、これまで無言を貫き通していた男が口を開いた。 「女々しいだろう? 結局オレはここに対する未練を捨て切れていないんだ」 それは問いかけというより独り言のようだった。 自嘲にしてはあまりに淡々としている。まるきり他人事のようだと女は感じたが、ここにいる彼自身の意思ではなく現実世界を生きる彼の無意識によって空間が形成されているのだから、実際に 他人事なのだろう。問いかけに答えを期待しているようでもなかった。 しかし、女はあえて言葉を返す。 「思い入れの強い場所があることは、恥ずかしいことなのかしら」 それは純粋な感想だ。帰りたいと願う場所を持たない彼女にとっては羨ましくもある。 しかし男はそれきり口を噤んでしまった。女も追い討ちをかけるような真似はしない。そんなことをしなくても自発的に思考して問題を解消してしまう男だと、短い付き合いながらも解っている。 何を考えるでもなくベッドに伏せたまま瞬きを繰り返していた女は、ふと、これまで決して振り返らなかった男がじっとこちらを見つめていることに気が付いた。 瞳の動きで言葉を促すと、やはり聡い男は反応を示す。溜息でもなく鼻で笑うでもない息を零した男は、瞳の幅を狭めて云うのだ。 「やはりそこがお前の定位置か」 「・・・・・・・・」 そんなことを云われても女は返事のしようがない。現実世界の自分がこの男のオリジナルとどのような場所でどのようなやり取りを交わしていたのか、女は知らないのだ。それを口惜しいと思え るほど感情の起伏に富んでいない彼女は、深い琥珀色の瞳でじっと男を射抜く。 男がそう云うのであれば、そうなのだろうと女は思った。そんな彼女の胸の内を知ってか知らぬか、「パスを繋げたままにしてやるから、たまにはお前から訪ねて来い」と男は云う。 なぜ私が。 咄嗟に出掛けたその言葉は、しかし女の唇の内側で留まった。 この男の傍は、なぜか居心地がいい 「・・・・そうね。たまになら」 貴方が痺れを切らして迎えに来るくらいの頻度になるでしょうけど、という予測は心の内側に留め、女は淡々と返事を返した。
『交われば黒』 管理者×管理者その2 2011/ 6/19 修正して再up |