扉の向こうに居たのは髭面がむさい中年男だった。
 宿の主人を名乗る彼の顔が確かにチェックイン時にあったと記憶を引っ張り出したL.L.は、しかし機嫌の悪さを隠すことなく前面に押し出した。



 ハシュベスの難民キャンプを出て丸3日が経った。途中で長距離鉄道に乗ったものの、多国家の主要都市を結ぶ国際鉄道は駅から駅までが非常に遠く、まずその駅を目指すのに砂漠慣れしたラクダの足でさえ時間が掛かった。
 馬もそうだが、動物というのは乗り心地が決して良いわけではない。
 制御されたモーターによってブレなく走る人工的な乗り物と違い、動物はとにかく揺れる。上下の揺れはもちろん、全身の筋肉が連動して動くため左右斜め前後に揺さぶられるのだ。乗馬経験があるとはいえ長時間に及ぶ移動はさすがに疲れが伴った。
 加えて、C.C.と離れている時間が長いのも痛かった。
 難民キャンプを出てからラクダを入手した村までの道中は並んで歩き、会話もした。しかしひとり一頭ずつラクダに乗って列を成すと距離が開き、話をするにも声を張り上げなければならない。結果として3メートル先を往くラクダの尻ばかり眺めるハメになり、微塵も楽しくなかった。夜は夜でラクダを風除けにしてふたり身を寄せ合い眠るだけ         そんな軍行のような味気ない昼と夜を繰り返し、今朝遅くに国際駅のある都市へ到着した。幸いにもラクダの買い手はすぐに見つかり、昼過ぎには鉄道に乗って、夕方前にようやくこの街に降り立った、というわけだ。
 ユーロピアはまだまだ先だが、たまには宿をとって休まないと身体が持たない。C.C.と相談して今日はこの街までと決めた結果である。
 国際鉄道の停車駅があるような都市には大概、外国資本で建設されたブリタニア仕様のホテルがある。しかしそういうホテルは身分証明書の提示に始まり何台もの監視カメラが脇を固めているのが常で、そういった記録媒体とは極力無縁でいたいふたりが選んだのは近隣からの旅行者も利用する個人経営の小さな宿だった。
 衛生面に不足はない。旅先の文化を充分に味わおうとする風潮が高まり、あえてこういう宿に泊まる外国人旅行者が増加しているらしい。そのため掃除には気を配っているようで、エントランスやフロント、部屋から風呂に至るまで眼が行き届いていた。だから外資系ホテルとの差は建物の構造や内装、什器、それから立地条件くらいだろう。
 線路の向こう側で外資系ホテルや高層ビルを多く抱える新興地に対し、観光名所が多く残るこちら側の旧市街地は駅から離れる毎に路地が狭くなり、治安も悪化する。
 とはいえふたりがとった宿は街で一番大きな広場から2本入った通りにあるので治安はそこまで悪くなく、窓から飛び込んでくる声は明るく陽気だ。
 夕方と云うには少々早い時間に現地入りしたふたりは真っ先に宿をとって荷を下ろした。それから食料の調達に出掛け、戻って湯を使い、C.C.が用意した夕食に舌鼓を打って、今は寛いでいる最中だったのだ。
 そこに突然やって来た第三者。これで気分よく応対できる筈がない。
 不機嫌を隠そうともしないL.L.に多少怯んだ様子を見せた宿の主人は、しかし商売人の鑑とでも云うべきか、逃げ帰ったりなどしなかった。即座に笑顔を貼り付けて「お楽しみ中失礼致します」と宣う。だったら邪魔をするな、と内心で毒づいたL.L.は「何の用だ」と完結に訊いた。
 正体がバレたかとも思ったが、髭面主人に警戒心や周囲を気にするような挙動は見られない。だとすれば純粋に客への用事だと判断し、鷹揚とした態度を崩さずに相手の返答を待った。

「実は先程お伝えし忘れたことがございまして、はい。この辺りは水が何より貴重な土地でございますから、ご入浴毎に別料金を頂いているのです、はい。こちらが料金表でございます」

 男が差し出したボードを見たL.L.は眉根を寄せた。
 この辺りに明るくなくても解る。これは所謂ぼったくりというやつだ。
 飛び込みでやって来た年若い異邦人がふたり。荷物の大きさからして数日の観光ではなく流浪の旅人らしい。そんな酔狂なことが可能で、かつ一等地にほど近い宿を求める人間は金を持っているに違いない。      などと商魂逞しい主人が踏んだことは手に取るようだった。
 L.L.は考えた。
 交渉の余地はある。ギアスを使う手もある。
 しかし。

「・・・解った。チェックアウト時に纏めて精算しよう。風呂は明日の朝も利用するから用意を頼む。その代わり   

 吹っ掛けが成功するどころか期待以上の成果に繋がり驚きと喜びを隠せない主人と視線を合わせたまま、L.L.は続ける。その瞳から赤い鳥が羽ばたくのを見た男は、しかし次の瞬間には見た光景を綺麗さっぱり忘れてしまった。



 L.L.が戻った部屋は照明が落とされ、薄暗かった。
 点けたままの出入口のライトが室内の中程までを照らす。アラベスク模様の絨毯を進むと奥で待たせていた女が言葉を発した。

「良かったのか?」

 壁際に置かれたソファーにしどけなく横たわる女。白いシャツは胸元まではだけ、ホットパンツのホックも外れている。髪は結い上げておらず、豊かな絹髪がソファーの座面やクッションに散っていた。
 L.L.は口元に笑みを浮かべる。
 C.C.をここまで乱したのは他でもないL.L.だ。髭面主人が云った『お楽しみ中』はまさにその通りで、中断を余儀なくされたL.L.の怒りは当然のことだったのである。
 待ってろ、という云いつけ通りにC.C.が淫らな恰好のままL.L.を待っていたことで気分は少し上向いたが。

「金で解決できるうちは穏便だろ?」

 追放したはずのぬいぐるみをC.C.から取り上げて再度ソファーの端に追いやり、空いたスペースに腰を下ろす。小造りな頭を撫でて乱れた髪を梳いて、と戯れていると、L.L.が居ない間にぬいぐるみを取り返したことが気まずかったのか、C.C.がのそりと起き上がった。
 顔を寄せるのでキスかと思いきや、不意に耳打ちを食らう。

「ギアスを使ったくせに、よく云う」
「・・・気付いてたのか」

 会話は聞こえたとしても姿までは見えなかっただろうに、まるでその場に居たかのようだ。さすが魔女だなと胸の内で賞讃して、L.L.は自ら唇を寄せた。
       『今夜はもう来なくていい。それから誰も部屋に近付けるな』。
 それが髭面主人に掛けたギアスだ。追手が掛かっているような気配はなかったが、予防策は打っておくに越したことはない。
 そして何より、今晩はこれ以上邪魔されたくなかった。

「C.C.」

 甘く囁けば、察した女はそっと瞼を伏せる。
 移動のためのここ数日の間、L.L.もただ手を拱いていたわけではなかった。C.C.のこの従順な反応は休憩や夜の合間に同じようなやり取りを反復して学習させた賜物だ。その上出来な成果を噛み締めながらL.L.はしっとりと唇を重ねる。
 括れた細腰を抱き寄せ、膝の上へと導く。跨る格好になったC.C.は微妙な貌をしたが、抵抗されないので照れているだけなのだろう。L.L.としては両手が空いて触り放題のため嬉しいばかりの体勢だ。
 ベルトを外してただ羽織っているだけだった上着は軽く引っ張るだけでするりと肩から落ちた。砂除けだという腰布も引けば簡単に外れる。
 今まで見る機会がなかったシャツとホットパンツだけの姿は新鮮だった。
 シンプルだが可愛らしいその姿。頑なに拘束衣を愛用していたのがまるきり記憶違いであったかのようにL.L.は復活してからC.C.の様々な装いを見ていて、それがひどく嬉しかった。
 惜しげもなく晒された太腿に手を這わせ、ニーハイソックスを下ろしていく。磨きがかかった滑らかな手触りに、風呂で垢すりを利用したとすぐに気が付いた。

「垢すりまでしたのか?」
「・・・ダメだったか?」
「ん? いや、・・」

 男風呂にも専属の垢すり師が居た。が、赤の他人に触られるのを好まないL.L.は、隠しようがない刺し傷や痕のこともあって垢すりを断ったのだ。それはすべてL.L.の事情であってC.C.まで合わせる必要はないし、咎める気は更々ない。
 だから、むしろ。

「良い仕事をする、と思っただけだ」

 元より滑らかな肌が今日は一段とそう感じるのだから、相当の腕利きなのだろう。能力を正当に評価しようと務めるのは生前からの習慣で、チップを別途弾んでもいいとさえL.L.は考えた。
 キスの合間にそんな会話を挟みながら手を動かしているうちにC.C.の脚を覆っていたソックスは両方ともソファーの上。それでも手を止めないL.L.に不安を覚えたのか、C.C.が困惑気味に「ここで?」と零す。
 別に、このままでも床に落としはしないのに。
 ここで素直に「ベッドがいい」と可愛くねだれないのが如何にもC.C.らしく、L.L.は苦笑した。
 笑わせてやると誓ったのに、困り貌を見るのも実は楽しい。そんな自身への呆れを多分に含む苦笑をどう解釈したのかC.C.が非難めいた眼差しを向けてくるものだから、L.L.はC.C.を落とさないよう注意を払いながら立ち上がった。
 足を向けた先は今宵の寝床だ。
 ぎゅっとしがみ付くC.C.にまたL.L.の唇は自然と弧を描いて、それを誤魔化すために触れるだけのくちづけをひとつ。
 始まったばかりの無謀とも思える旅に早くも身体は悲鳴を上げているけれど、こういう時間を持てるのなら砂漠越えも悪くはないなと、L.L.はしみじみそう思うのだった。






『蜜夜の話』

2019/12/ 5 up
2020/4/28 一部修正