ジルクスタンに駐留している黒の騎士団第5艦隊は近々撤退するだろう、というのがL.L.の読みだった。
 云われてみれば、まあそうなっても不思議はないなと思う。黒の騎士団はナナリー救出を目的にジルクスタンへ乗り込んで来たのだから、ナナリーが無事に救出され、ジルクスタンとの停戦も成った今、黒の騎士団が大艦隊を駐留し続ける意味はない。むしろこれ以上は「侵略行為ではないのか」と超合集国以外から批難が出かねないため、事後処理隊を除いた大部分はジルクスタンを去ることになる。
 となれば、次に予測されるのは一時的に難民と化していたジルクスタン国民たちの帰宅ラッシュである。
 避難時と比べて帰国には「殺されるかもしれない」という危機感が伴わないため、人によって行動開始にバラつきが出る。逆にそれがL.L.とC.C.にとっては都合が良かった。キャンプを去るときは人混みに紛れたいが、そのあと人の波を掻い潜ってジルクスタンを離れるなら周囲の眼は少ない方がいいからだ。ゆえに帰郷する人々が多すぎず少なすぎないタイミングを見計らって動こうと事前の打ち合わせはバッチリである。
 このまま難民キャンプに残れば、いずれはブリタニア公国に受け入れてもらえるという噂もある。しかしそれでは却ってL.L.の正体が明るみに出るリスクが増すことになるから、遅かれ早かれこの難民キャンプを離れる必要はあるのだ。
 C.C.は溜息をひとつ漏らした。
 キャンプでの暮らしは不便なことも多いが、周囲との繋がりができると途端に居心地が良くなるものだ。ここ一年は虚ろ状態のルルーシュを連れて常に周囲を警戒しながら旅をしていたから、特にそう感じるのかもしれない。
 ジルクスタン人のほとんどは悪逆皇帝ルルーシュの顔を知らない。インターネット環境どころかテレビの普及率も低く、首都グラルバードですら主な情報源が国営のラジオ放送という国ゆえに、難民キャンプに避難してくるような下層市民たちはL.L.の正体に気付きようがないのである。
 初めの頃こそ警戒していたC.C.も、彼らのお国事情を知った今では肩の力を抜いて生活できた。
 警戒していると悟られても不審に思われるだけだと意図的に自重している面もある。
 だから気を付けるのは配給品の受け取りなど、キャンプの運営スタッフに近付くときだけだ。しかしそんなときには大概人が溢れ返っているから、こちらから話し掛けたりしない限りまじまじと顔を見られることもない。
 そんな調子なので、最近の心配事はもっと別のところにあった。
 それは      ・・


 ふぅ、とC.C.は息を吐いた。
 こんな砂の地だからこそ、頭から湯を浴びるととても心地良い。こんなときに生き返ったような気分になると云うんだろうな、と考えて、実際に黄泉返ったときに失望しかないことを知るC.C.は苦笑いを浮かべた。
 世界人道支援機構から貸し出された、可動式大型シャワーベース。太陽光発電と浄水による循環式給湯システムによって、砂漠の真っ只中でも湯浴みすることができる優れものである。
 とにかく利用者が多いためシャワーの下に居られる時間は決められているものの、昔から真水に恵まれない地域ゆえに並々と湯を溜めた浴槽に浸かれるのは一部の特権階級や首都外縁部の疎開区域に滞在する外国のビジネスマンくらいで、滔々と湯が降り注ぐシャワーに感激する人の姿さえあったくらいであるから、制限時間に文句を云うジルクスタン系難民は見掛けなかった。そして今でこそ先進国の水回りの快適さを知るC.C.も、生まれは何百年も前のユーロピアである。当時は貴族の館ですら風呂場というものが存在せず、台所の竈の傍に置いた盥に湯を張って入浴していたのだから、その時代と比べたら専用のシャワーベースは破格の好待遇だとC.C.は思う。利用できるのが一日置きでも、長時間並んで待たなければならなくても、時間厳守の短いシャワーも、一切浴びられないことを思えば苦にはならない。
 時間を知らせるベルと共に次の女性と交代したC.C.は、さり気なく胸の傷を隠しながら脱衣場へと向かった。
 広い脱衣場は、それでもシャワールームと同等かそれ以上に混んでいる。難民キャンプでは得るのが難しい癒しの時間。その細やかなひとときの延長として脱衣場でじっくりと身なりを整える利用者も少なくないからだ。
 しかしそんな女性たちを余所にさっさと衣服を纏ったC.C.は、濡れた髪もそのままにシャワーベースを後にした。
 足早に向かうのはL.L.との待ち合わせ場所だ。
 利用条件はほぼ同じであるはずなのに、列が進む速度は女性の方が圧倒的に遅い。L.L.をなるべくひとりにしたくないC.C.は、しかしすでに待ち合わせ場所に居るL.L.を見止めて貌を顰めた。

「君、こんなところで心細くない? 今夜俺が    
「連れが居る。必要ない」

 横から突然声を掛けてきた男など一瞥もせずにすっぱりと切り捨てる。
 ここでこの手の誘いを受けたのは初めてではない。ストレスが溜まる場だからそういう欲求が強くなるのだろう。非力な女性や小さな子どもが被害に遭う事件がすでに発生しているらしく、それを聞いたL.L.が料理中もC.C.に張り付くようになったのは完全なる余談である。
 しかし、需要があれば供給する者が少なからず出現するのが世の常で。
 対価ありきで客を取る女性も難民キャンプの中には存在した。言葉通り身体を張って生きる彼女たちを尊敬こそすれ、蔑む道理はない。
 ただし、L.L.を誘惑するなら話は別である。
 待ち合わせ場所に見つけたL.L.はひとりではなかった。L.L.の手を取って熱を込めたまなざしを注ぐ女。身綺麗だが砂礫の地にそぐわない薄衣が何者かを物語っていて、気分良く居られるはずがなかった。
 生きるためとはいえ、叶うなら好みの男を相手にしたい気持ちは理解できる。しかし、だからと云って大切なパートナーをはいどうぞと差し出せるわけがない。L.L.と2、3ほど言葉を交わしたらしい女があっさりとその場から立ち去ったので修羅場的な展開は避けられたものの、正直な話、C.C.はおもしろくなかった。
 L.L.はモテる。精神が虚ろな状態のときは全然見向きもされなかったのに、瞳に力強い光が戻り、引き締まった表情が戻り、背筋を伸ばして堂々と振る舞うようになった途端、世の女性たちのイイ男センサーに引っ掛かるようになったのだ。
 そのモテっぷりは年頃の女性だけに止まらず、近所のマダムたちからは「たくさん食べさせてあげて」とおかずや菓子のお裾分けを毎食のようにいただき、頬の丸みが愛らしい女児たちからは「お兄ちゃんのお嫁さんになりたい」と熱烈に逆プロポーズされる程である。
 この女タラシめ、とC.C.は小さくぼやく。他の女に気を取られている暇があったら、C.C.に寄ってきた欲求不満男を追い払ってほしいものだ。

「待たせたな」

 明後日な方向を見つめて思考に沈むL.L.に声を掛けると、彼はようやくC.C.の存在に気付いたようだった。
 C.C.を見て、そして思い切り眉を寄せる。

「またお前は・・・髪を乾かしてから出てこいと何度も云ってるだろ」

 濡れた髪にタオル代わりの布を被っただけの、人前に出るのに相応しくない姿。それを恥ずかしいと思う以上に一刻も早くL.L.と合流したかっただけだというのに、L.L.は有無を云わせずC.C.の髪に布を巻き直して、砂を払った自身の外套を頭から被せた。

「早く戻るぞ」

 そう云われて、差し出された手。
 一連の行動も表情もすべては独占欲の現れだと、テントに戻れば甲斐甲斐しく髪を乾かしてくれると知っているC.C.は、先程までのモヤモヤした気持ちを腹に納め、ほんの少しだけ口元を緩めてL.L.の手を取ったのだった。





 そんなことがあったその日、夕食の片付けが終わったC.C.は荷造りをしていた。
 しばらく滞在する予定であっても有事の際にすぐ行動できるよう荷造りを済ませておくのは、ここ1年の旅で身についた習慣である。
 しかし同時に、本当に危険が及んだときにはいつでも切り捨てる心積もりはあった。たとえすべての荷物を失ってしまっても、一番大切なものさえ手放さなければ前に進んで行けるのだから。

     チーズ君・・)

 お気に入りの、それこそアッシュフォード学園からずっと一緒だったぬいぐるみ。大切なそれを囮に使ったのは、まだ幌車でユーロピアを旅していたときのことだった。
 とある町に立ち寄ったとき、視線を感じるな、と思った。それが尾行されていると確信に変わったのは、決定的な物的証拠を見つけてしまったからである。
 荷台の下に取り付けられていた携帯電話。あまり馴染みがない形状のそれは一見してユーロピア製と判る代物で、C.C.は手に汗を握った。
 幌車を用意してくれたのはジェレミアであり、彼はC.C.の連絡先を知る数少ない協力者のひとりである。幌車にこっそりと携帯電話を仕込んで、あまつさえ尾行する必要はない。
 では誰が、何の目的で。
 C.C.にもターゲットになる要素はもちろんある。不老不死、あるいはコードが。       どんな理由であれ、C.C.を狙っているのならそれでいい。だが、もしもルルーシュに気付かれたのだとしたら。いや、ルルーシュの方が断然顔が売れているのだから、やはり。等々、いろいろなことが一瞬のうちにC.C.の脳内を駆け巡った。
 守るものがあると人は途端に弱くなる。それが大切であればある程、攻める選択が出来なくなるからだ。
 C.C.も同じだった。これがひとり旅であったなら、携帯電話くらい遠慮なく引き剥がして端末の情報を調べるなり、その辺に適当に捨てるなりしただろう。しかしそんな単純明快なことが、今は、出来ない。
 選択肢はふたつ。発信機代わりの携帯電話を処分するか、幌車を乗り捨てるか。
 幸いなことに、C.C.が携帯電話を発見したことに相手は気付いていないようだった。町で感じた視線を今は感じないから、発信機が機能しているうちは気取られないように町中以外では近付かないようにしているのかもしれない。
 長考の末、C.C.は携帯端末を処分することに決めた。判断能力に欠くルルーシュを連れ、いま足を失うのは痛い。仮に幌車を捨てるとしたら、この国を無事に脱出してからだ。
 決めてしまえば行動は早かった。
 再度車内外を隈なくチェックして不審物が例のブツだけだと断定し、携帯電話を回収。それから食糧の調達を装って近場の町に立ち寄った。
 何軒か店を回ってみて、やはり敵意ある視線を感じたC.C.は、目的のものを探しつつ車を走らせた。
 ユーロピアの田舎町では都市部と比べて幌車がよく使われている。自前の幌車に似たような車が停まっている店を見つけてC.C.も駐車し、タイミングを見計らって携帯電話を隣の荷台に投げ入れた。
 大切なぬいぐるみに隠した携帯電話を。
 ぬいぐるみを道連れにしたのには理由がある。やわらかいものに包まれていれば車が跳ねても音が立ちにくい。さらに車の持ち主に一見して携帯電話を隠していると悟られない。そして、少しでも長く尾行者を誤魔化したい。
 このぬいぐるみはC.C.の荷物の中で一番特徴的なものだ。しばらく尾行していたのならC.C.がぬいぐるみを大事に扱うところも目撃していたはずで、身代わり幌車に不信感を抱いて荷台を捜索したときにこのぬいぐるみがあれば誤魔化せる可能性はある。あるいはまったくの逆で、身代わりが巻き込まれただけの第三者だと証明される物証になってくれればいい。
 とにかくこのときはこれ以上の策が浮かばなかった。ずっとルルーシュの傍で戦略家の考え方に触れていたというのに。
 しかし気落ちする暇も傷心に浸る余裕もなく、しばらく後を付いて回った身代わり幌車と別れてからは、ただひたすら車を走らせた。
 今にして思えば、大切なぬいぐるみを囮にする必要はなかったのかもしれない。でもそれは逃げ果せた今だからこそ云える話であって、あの国を出るまで昼夜を問わずハンドルを握り続けたあのときの、不老不死のくせに生きた心地がしない嫌な感覚がもっと精神を蝕んだと思えば、最善と思える方法を採ってよかったのだと信じるしかなかった。
 C.C.に出来るすべてのことを賭してでも逢いたい人と、再会できたのだから。
 ちなみに、新しいぬいぐるみを迎えたのはC.C.が寂しかったからではない。姿勢を意識的に制御できないルルーシュが荷台のあちこちに身体をぶつけるので、クッションの役割を果たすものが必要だったからだ。
 ただのクッションにしなかったのは、少しでもルルーシュの感情面での教育になればと期待したため。初めのうちは触りもしなかったが、慣れてからは抱き枕にすることもあったし、怯えたときに縋る程には懐いてくれた。
 今ではこの耳長のぬいぐるみも旅の良き友である。


「C.C.」


 ちょうど荷造りを終えたタイミングでL.L.から声が掛かった。
 何かの片手間ではなく、L.L.がきちんとC.C.を見て呼ぶときは重要な話があるときだ。それを経験則で知っているC.C.は、ぬいぐるみを抱えてL.L.の傍に寄った。
 背を向けた状態でL.L.の膝の間に腰を下ろす。上体を倒して胸に凭れ掛かれば、さり気なく腹にL.L.の腕が回される。数日前、携帯電話サイズの端末をふたりでのぞき込んでいたときに強かに頭をぶつけて以降回避策として定着した、最近の作戦会議スタイルだ。これなら同じ方向から画面を見られるので頭をぶつけることもないし、顔が近いので声を潜めて話すにも都合がいい。
 L.L.から渡された端末を見ると、地図が映し出されていた。ハシュベスの難民キャンプと思しき場所から伸びたルートが地中海に達し、沿岸に沿ってユーロピア方面へ続いている。

「今の世界情勢を考えれば、これが一番安全なルートだろう。状況に応じて63のルートに変更可能だ」

 ふむ、と一応考えたフリをして、実際のところC.C.には異論も不満もなかった。
 こういうことに関してはルルーシュに全面的に任せておいた方がいい。何かイレギュラーな問題が発生したときに助力すればいいだけだ。

「第5艦隊の本隊が帰還を開始した。早ければ明日にでも帰郷者が出る。いつでも動けるように準備を済ませてくれ」
「わかった」

 それが荷物ではなく心積もりの話であると理解しているC.C.は経路を確認しがてら頷く。が、しかしルートがユーロピアのとある国に差し掛かったところで指を止めた。
 思い出しても苦しい感覚が蘇る。
 ここでC.C.はぬいぐるみと別れたのだ。
 大切なあの子を手放した経緯を、C.C.はL.L.に詳しく話さなかった。キャンプに着いた後に取り留めのない話をしている中で「あいつはどうした?」と訊かれたから仕方なく答えたが、押しつけがましい善意になるのが嫌で「逃げるのを手伝ってもらった」としか伝えていない。だがL.L.はそれだけで事情を酌み、C.C.を抱き寄せて「ありがとう」と云ってくれた。何に対する礼であったのか、判らないし訊いてもいない。それでも詫びではなく感謝をくれたから、あのときC.C.は少し救われたのだ。
 あの国を、また、通る。
 ぞくりと寒気が這い上がってきて、C.C.は震えた。気付いたL.L.が顔を覗き込む気配がする。

「C.C.?」
「ここは、通りたくない。・・・チーズくんの、ところだから」

 ああ、と呟いたL.L.がC.C.の手元を確認する。
 しばしの沈黙の後、不意に「取り戻しに行かなくていいのか」と投げかけられた。

「いいんだッ!」

 胃のあたりがゾッと騒ぐよりも前にC.C.は叫んでいた。
 何度も絶望を味わって、やっとの思いでルルーシュを取り戻し、幸せなことにこうして一緒に旅へ出られたのだ、むざむざ危険に飛び込む必要はどこにもないだろう。
 腹に回された腕を冷えた手で掴む。そんなC.C.を見て何を思ったのか、L.L.は長い溜息の後に「解った、ルートを変えよう」と答えた。
 C.C.はホッと肩の力を抜く。
 沈黙が続いた。


「・・・・やはり、俺のコード継承は不完全なんだな」


 ぽつり、と。先に零したのはL.L.だった。その腕の中でC.C.は身体ごと振り返る。
 驚きを隠せないC.C.とは対照的に、L.L.は静かな瞳で見下ろしていた。
 人一倍聡く、また用心深い男のことだ、自身の現状に疑問を抱かないわけがない。C.C.は諦めにも似た虚脱感を味わった。
 C.C.に平静が戻ったことを察したのだろう、L.L.が口を開く。

「お前はどう思う?」
「・・・どうせ自分で分析して結論が出ているのだろう?」
「コードに関してはお前の方が詳しいからな。先人の意見がほしい」

 嫌なヤツだ、とC.C.は眉を顰める。
 しかし助力を乞われて断れた例がないものだから、結局はL.L.に甘い自身に呆れながらC.C.はL.L.に向き直った。
 目の前の白いシャツに手を伸ばす。上から順にボタンを外し、前見頃を開けて、そしてC.C.は予測が正しかったことを知った。
 シャツを握る手から力が抜ける。
 L.L.は何も云わずにC.C.を見つめていた。だからC.C.は言葉を探す。話すべきことが沢山ありすぎてなかなか出て来ない言葉の代わりに、L.L.の首から胸までを撫で下ろした。

「・・・・・この傷、」

 返って、首をなぞる。
 C.C.から見て右側の中程にできた切り傷の痕のようなものは、ゼロ・レクイエム前にはなかったものだ。まじまじと鏡を見る機会が少ない今の生活でL.L.は気付いていないかもしれないが。

「これは肉体が復活した印だ」

 コードの継承に死は必要不可欠である。それはコードとの同化が行われるCの世界    つまり集合無意識の元へ行くには死という形で肉体の壁を越えるのが一番簡単で確実だからだ。
 このとき継承予定者はただの人間なので、集合無意識の記録では『死んだ』ことになっている。
 しかし継承が済んだ時点で『生き返る』という超常現象が起きるわけで、不可逆的な記録に整合性を持たせるため、復活を果たした者として傷痕のような印が付くのだ。オリジナルではないが、オリジナルと同一の存在である、と。

「ナリタで見たのだろう? 私の傷痕を」

 問いかけに、L.L.の視線がC.C.の左胸を捉える。ひとつ頷いてC.C.は続けた。

      あの日。私が切られたのは首だったはずなのに、目が覚めたとき残っていたのは胸の傷だけだったんだ」

 もう何百年も前の話だから鮮明に記憶しているわけではないが、切られた首の辺りが痛くて、それ以上に熱くて苦しかったことは覚えている。
 しかしその痕は残っていない。
 目が覚めたら恩人たる魔女が目の前で死んでいて、恐ろしくなって逃げ出して、血を洗い流すために入った湖の水面に移った己の身体を見て、首ではなく胸に傷があることを知ったのだ。覚えのない不気味な傷痕を発見するよりは、首に痕が残っていた方がまだマシだと、今でも思う。

「だが、ジェレミアのところで目を覚ましたお前にあったのは、復活者の印だけではなかった」

 首から下がって、L.L.の左胸に至る。
 そこには心臓を貫くように、幅10センチ以上ある横一文字の傷痕が走っていた。ゼロに扮したスザクが世界中の憎しみの連鎖を断ち切るために貫いたその痕は、今は見えないが背中側にも在るはずだ。
 しかし、今はそれしかない。
 ジェレミアのところで虚ろ状態のルルーシュが目を覚ましたときにはもうひとつ重要なものが確かに在った。
 首元に在ったコードの紋章。今は、それが      ない。

「それにお前、昼間ギアスを使っていただろう」
「・・・・見ていたのか」

 正確に云えば、相手の瞳が赤く濁ったのが見えたからL.L.がギアスを掛けたのだと判った、だが。
 昼間、シャワーベースの近くでL.L.に絡んでいた薄衣の女。あの身の引き方を見るに、その場を去るようギアスを掛けられたことは想像に難くない。


「コードとギアスはひとつの身体で両立しない」


 それは真理だ。
 だからこそL.L.がコード保有者ではないとC.C.は断言できる。

「ギアスはコードを継承する核になるための力に過ぎないからだ」

 死をもって肉体の壁を越え、Cの世界へと至った精神は、しかし肉体がない故に他の精神との境を保てず、周囲と混ざり合って大いなるひとつに成る。これがいわゆる集合無意識と呼ばれるものだ。
 人は少なからず他人との関わり合いの中で生きている。そしてその関係から、あるいは他人との比較から己への認識を深める。
 だが死して相対する他者が居なくなったとき、人はどれだけ自分というものを保てるだろうか。
 そこで鍵となるのがギアスなのだ。
 ギアスは王の力である。その実態は発現した人物の根幹に眠る願望の発露であり、どれだけ類似した能力でも効果量や範囲、使用条件が異なるため、厳密に云えば同じギアスは存在しない。
 それは即ち、他者に左右されない個の証明に成り得る。
 Cの世界に於いて個を保つ境となり、また同時にコードを組み込むパイプとなること     これこそがギアスの真の役割である。特殊能力を使って生前に何を為したかなど、はっきり云って意味はない。

「コードを継承することでギアスは吸収されてなくなるのか、Cの世界に置き去りになるのかは判らない。だが確実に云えることは、コードを継承したらギアスが使えなくなるということだ」

 C.C.は改めてL.L.を見る。
 いまだ使えるギアス。復活した証である首の傷。胸に残ったままの刺し傷。
 そして。

「アラムの門までは、確かにあったんだ」

 触れた首元は、男にしておくのが惜しいくらいに肌理細やかで、ただただ白い。
 そこにあったはずのコードの紋章を惜しむようにC.C.は首元をなぞる。

「それで、お前はどう見る?」
「・・・・・・おそらく、ゼロ・レクイエム前の状態に戻ったのだと思う」

 首の傷は不可逆的なものなので消えようがないと仮定すれば、他はそれで説明がつく。

「継承するはずだったコードが消えた可能性は?」
「確証はないが・・・お前のギアスは強力だ。コードが宿主から離れる理由はない、と思う」
「もう一度Cの世界に行けばハッキリするんだな」

 記憶を刺激する台詞。
 C.C.は顔を顰めた。


「だからお前は門を探しているのだろう?」


 Cの世界へは通常、死ぬことでしか行けない。しかし門という特殊なシステムを介することで死ななくてもCの世界へ行くことは可能なのだ。L.L.の中にコードが眠っていると確証が持てない限り、安易に死という方法を選ぶことは出来ない。だからL.L.は門を求める。
 何が「意見を聞きたい」だ、試すような真似をして。
 C.C.は内心腹立たしく思ったが、一方でL.L.も怒っている可能性に思い至った。
 L.L.の現状に薄々気付いていながら、今まで黙っていたこと。まだ人の身であるなら、天寿を全うして逝くのが幸せかもしれないと頭を掠めたこと。
 女心が解らないボウヤの癖に、そういう機微には聡いから。
 チラとL.L.の顔を窺えば、まるで見透かしたようにL.L.は溜息を吐いた。
 しかし態度とは裏腹に、やさしく手を握られる。

「俺も黙っていたんだ、そんな貌をするな」
「だがお前は・・」
「何と云われようが、俺は必ず門を探し出す。コードを継承する。      お前が魔女なら、俺が魔王になればいいだけだろう?」
「ッ、・・!」

 嬉しかった。国境沿いの村の外れでL.L.が云ってくれた言葉の、胸が打ち震えるような感激が甦る。
 女タラシ以前に、L.L.は人タラシだ。しかし一番それに中てられているのは、もしかしなくてもC.C.なのだろう。
 ここで胸に飛び込む可愛げでもあれば・・、と考えて、そしてC.C.はハタと気が付いた。
 L.L.のシャツがはだけている。犯人は他でもないC.C.だ。傷など諸々を確認するためにやったことだが、すぐにボタンを掛けないどころかわりと無遠慮に撫でまわしたりと、失態だらけだった。
 C.C.は落ちかけた感涙すら引っ込む勢いでL.L.に背を向ける。

「す、少し前まで私の後ろで怯えていたのに、急に成長したなっ」

 動揺していても皮肉をひねり出すことは出来るらしい。
 ぬいぐるみは身体が勝手に動いて抱き上げていた。

「・・記憶がない間の話か?生憎、それは俺じゃないからな。即刻忘れろ」
「忘れるものか。可愛かったぞ〜、この子を抱きしめてすやすや寝てる顔とか」
「おまッ、まさか写真なんて撮ってないだろうな!?」

 押し殺せていない声にL.L.の焦りが見えて、少しおかしかった。
 L.L.の手が届く前に携帯端末を確保すれば、大きな手が追ってくる。

「貸せ!もしくは今この場で消去しろ!」
「だーめーだー。このケータイは私のだぞ」

 C.C.も徹底防戦の構えで挑む。腕を伸ばしては引っ込め、身を捩って巧みに追及の手を躱した。
 まるで子ネコのじゃれ合いだ。先程の羞恥が薄れて、思わず「ふふっ」と笑ってしまう。

「クッ・・肖像権の侵害だ」
「何をされたって文句のひとつも云わなかった癖に、何をいまさら・・」
「おい待て、他に何したんだお前」
「・・・それ、は    

 それ以上は云えなかった。
 言葉よりも胸が痞えたのだ。抵抗する気力も失せて、端末を握る手がぽとりと床に落ちる。
 携帯電話を狙うL.L.の手が触れれば、もう限界だった。

        ない」
「え?」

 端末を操作するL.L.の手が止まる気配がした。
 視界が歪む。決壊しないように瞬きを繰り返すけれど、果たしてどれだけ効果があるのか。

「残せるはずない・・・・あのお前、なんて」

 L.L.の手が肩に掛かり、そのあたたかさに促されて顔を上げた。
 困惑の中に思慮が垣間見える表情。それは10日前には決して見ることが出来なかった表情だ。
 虚ろだったルルーシュを写真に残せるはずがなかった。歴史的な大罪人が生きている事実を残してはいけないと自重したというのも理由としてゼロではない。しかし何より、写真を撮ることで虚ろの存在を肯定することになり、本当のルルーシュに二度と逢えなくなるような気がして怖かったのだ。
 厄災を振りまく嫌われ者の魔女が根拠のない思い込みに縋って行動する様は、さぞかし滑稽だったことだろう。
 そうまでして取り戻したかった人が、いま、目の前に居る。


「お前さえ、居れば    


 他は要らない。たとえ器が同じであっても意味はない。虚ろの彼を認められず、本来の共犯者を取り戻したい。
          その想いの名は恋だ。明確に自覚する程に、恋だった。
 ルルーシュ。
 いまは音に出来ない特別な名前を、しかし抑えきれずに吐息へと乗せる。
 瞬きをすれば、涙が粒になってほろりと零れた。

「C.C.・・」

 ふと気付けばL.L.の顔がすぐ傍にあった。
 唇に触れるやわらかな感触。大写しになった、瞼を閉じたL.L.の顔。キスをされているのだと、C.C.はようやく認識する。
 合意なく為された行為ではあったけれど、嫌ではなかった。むしろ待ち望んでいた触れ合いだったものだから、C.C.もそっと目を閉じる。
 国境沿いの村外れで云われた言葉を、C.C.はL.L.なりのプロポーズだと受け取っていた。随分と捻くれてはいるけれど、浅からぬ付き合いだから解る。自惚れではなく、あれは確かに将来を約束する言葉だった。
 しかしふたりきりでどれだけ過ごしてもL.L.の態度や距離は以前と変わらず共犯者に対するそれだった。だからL.L.のプロポーズは精神的な繋がりを求めたものであって、男女の関係を求めているのではないといつからか認識を改めていたのだ。
 彼に恋をした女として、寂しくはあった。
 しかしそれ以上に、共に居られる幸福を大切にしたかった。
 共犯者の距離感も嫌ではない。これはこれでC.C.が初めて手に入れた、唯一無二の関係だ。

(・・・と、思っていたのにな)

 いま、合わせた唇から伝わるのは、身を焦がすような熱情で。
 行き場を失くして途方に暮れていた恋心が一気に芽吹く。
 嬉しくないはずがなかった。

「っ、ン・・」

 思わず詰めてしまった息が苦しくなると、おそらくL.L.も同じだったのか、そっと唇が離れた。
 顔が熱い。息を止めていたからではなく、L.L.からの初めてのくちづけに舞い上がってしまったからだろう。誤魔化すように両手で頬を覆えばL.L.の手が伸びてきて、まるで労うように頬を撫でられる。自然と上向かされる動きに逆らうことなく身を任せていると、またふわりと重ねられて、それからゆっくりと唇の端から舐められた。
 誘うような、試すような動き。普段の強引さと色恋沙汰への鈍さが混在したやり方がいかにもL.L.らしく、愛おしさすら感じる。
 C.C.は薄く開けた唇でL.L.の舌先を軽く食んだ。
 あるいは、押し止めた、に近かったかもしれない。
 それでも拒絶とは到底云えない動きで、むしろ反応があったことがL.L.を悦ばせてしまったのだろう。いつの間にか後ろ頭に添えられていた手に力が込められたのが解った。
 あたたかい舌が、唇の隙間から侵入してくる。
 ゆっくり、自身を覚えさせるように。
 アレを匂わせる擬似的な行為に、身体の奥が熱くなった。

「・・・ん、ぅ・・」

 さらに入り込んだ舌がC.C.の前歯をなぞる。
 度重なる誘いに負けて差し出した舌がL.L.のそれに触れそうになった、そのとき。


 ピリリリ ピリリリ ピリリリ   


 ディスプレイのライトすら空気を読んでおとなしく切れ、存在感を消していたはずの携帯電話が突然大声を上げたものだから、驚いたC.C.は咄嗟に身を引いてしまった。
 思わず端末を拾い上げ、画面に表示された名前を見て慌てて電話に出る。
 続きを放棄したC.C.をL.L.は恨みがましい眼で見てくるけれど、鳴り続くであろう着信音を無視して、あるいは着信を切ってキスを再開出来るような神経は持ち合わせていなかった。
 電話を掛けてきた相手が相手だけになおさら、だ。
 無機質な端末から溢れてきた、明るくあたたかな声。C.C.が言葉を挟む隙すら与えない元気の良さ。屈託なく続く好意的な言葉に、自然と笑みが零れた。
 C.C.は合いの手程度の返事をなんとかねじ込みながら、シャツのボタンを留めていたL.L.の袖を引っ張る。端末を差し出せば、怪訝な貌を隠そうともせず、それでもL.L.は電話に応じた。
 相手の声を聞いたL.L.の貌が、たちまち驚きに染まる。

       シャーリー・・・」

 その直後にC.C.にまで届いた電話の向こう側の声は、内容まで解らないものの、確かに歓びに溢れていた。
 L.L.も対応に困っている。
 慌てて後ろを向いて電話応対に集中するL.L.を見届けてから、C.C.はそっとテントを後にした。
 今は邪魔をせず、ふたりきりにするべきだと判断したからだ。
 まるきり見張り番の気分で出入口の脇に腰を下ろす。日が暮れて久しい砂漠の空気が、L.L.とのやり取りで火照った頬に心地良い。
 見上げた夜空に雲はなく、満天の星がただただ綺麗だった。





 それからどれだけの間、星を眺めていただろうか。
 何を考えるでもなくぼんやりと夜空を眺めていると、突然L.L.が外に出てきた。それがひどく慌てたように見えたものだから、どんな大事件が起きたのかとC.C.まで身構える。

「おい、どうした?」
「お前ッ、こんなところに、・・」

 何やら疲れた様子で長く息を吐いたL.L.に連れられ、C.C.もテントの中に戻る。
 掴まれた腕にじわりと熱が移って、思った以上に冷えていたことを知った。

「どうして外に居た?」
「どうして、って・・・電話の邪魔にならないようにだが」
「・・・・・、だからって黙って行くヤツがあるか。そもそもこんな時間にひとりで出るんじゃない。危ないだろ」

 つまり、C.C.が居ないことに気が付いて、慌てて飛び出してきた、と。L.L.はそう云っているのだ。
 厳しい貌をして母親のようにくどくどと説教を続けるL.L.とは逆に、C.C.は顔を綻ばせる。

「どうしてお前はそんなに心配してくれるんだ?」

 あのプロポーズだけで充分だと思っていた。しかし男女の触れ合いが許されると知り、それに悦びを覚えてしまった今、まるで普通の女みたいに言葉が欲しくなってしまった。
 もっと直接的で、感情的な言葉を。
 C.C.の期待を感じ取ったのか、L.L.は途端に言葉を詰まらせる。そして散々逡巡した末に出てきたのは、こんな答えだった。

「俺が魔王で、お前が魔女だから、だ」
「ほぉ? つまり?」
「んん? ・・・・つまり、その・・・アレだ、・・・・・・・・・・・・俺が夫で、お前が妻だから、ということだ」

 熱を隠せない頬。逸らされた視線。素っ気ない語調。格好が付くときと付かないときの差が激しい、本来の彼。

「つまり、私のことが好きで好きで大好きだ、ってことだな」
「なッ!? ・・・・んでお前は情緒に欠ける云い方しか出来ないんだ・・」
「だが否定はしないんだな、お前」

 C.C.の指摘にL.L.はぴたりと固まる。
 顎に手を当てて、考えて。沈潜の結果、結論を得たらしいL.L.が降参するように肩を竦めた。
 そうだな、否定はしない。
 そう答えたL.L.の動揺は凪ぎ、真っすぐにC.C.を捉えていて。
 得られた答えに満足したC.C.はL.L.が見たがっているに違いない満面の笑みを浮かべる。その眸に、涙はなかった。






『これからの話』

2019/ 8/25 up