真珠の花嫁 (下町の日々R2 番外編)


 その空間は、ある種特異な雰囲気に包まれていた。
 ピンと張りつめた空気。漂う緊張感。
 しかし掛けられる言葉数と声量に対し、シャッターを切る音やフラッシュを焚く音は、いっそ清々しいほどの大音量で室内を満たす。

「よし、いいだろう」
「お疲れさまでした〜」

 館の主人が重々しく云い放つと同時にアシスタントのモニカが飛んでくる。碌に言葉を交わす隙さえ与えられず浚われていったC.C.の後姿を眺めながら、ルルーシュは溜息をひとつ零した。




 やわらかな新緑が艶々とした光沢のある濃緑に変わる頃、ルルーシュとC.C.は籍を入れた。
 別に木々の変化を待っていたわけではない。おでん屋の繁忙期がピークを過ぎ、時間に余裕ができたからである。
 駅向こうの二号店は今秋のオープンに向けて来月から工事が着工される予定であるし、コンピニエンスストア・チェーンとのコラボおでんの打ち合わせは終了済みで、晩夏から大々的な宣伝と ともに店頭販売が開始になる。裏を返せばこの時期を逃すと多忙を極めることは目に見えていたから、改めてC.C.に結婚を申し込んで、今日ふたりで区役所に婚姻届を提出してきたのだ。
 式を挙げるつもりは今後も一切ない。
 晴れ姿を見せるべき両親がともにいない身の上であるし、式の準備に時間を割くくらいならC.C.やナナリーを構ってやりたいと思う。C.C.も結婚式に憧れはないらしく、「別にいいぞ」とあっさり合意した。
 哀しそうな貌を見せたのは、むしろナナリーの方だ。
 それでも本人たちの意思を優先してくれたのだろう、異を唱えることもなく、「お式がすべてではありませんものね」と言葉を添えてくれた。
        だが。
 折角ですから、記念写真を撮りましょう。そう云い出したのもナナリーだった。

「思い出を残しておくことはいいことだと思いませんか?」

 などと笑顔で云われてしまっては、妹至上のルルーシュが無下に却下することもできなくて。
 入籍する日に合わせて写真館の予約をとるからと、日取りまで完璧に組まされてしまったのである。



 そんな遣り取りがあったのが、2週間前。
 ルルーシュとC.C.は区役所に出向いた帰りに町外れの写真館に寄った。すでに待機していたナナリーと3人で家族写真を撮影して、それで終わりだと思っていたルルーシュは、撮影終了と同時 に別室へ拉致された嫁に言葉を失った。
 一体何が始まるというのだ。
 ルルーシュとしてはすぐに帰って今日の仕込みの具合を確認する予定でいたものだから、想定外の事態にひどく慌てた。
 いや、写真館ですることなど限られているので、C.C.が何をされているのかくらいは予想がつく。それがすべてナナリーの計らいだろうということも。しかし事前に相談してくれ、と云いたくなるのも道理で。

「・・・ナナリー」
「はい。お兄さまはこちらへどうぞ」
「・・・・・」

 2週間前にも同じ笑顔を見たな。そう思いはしたけれど、愛妹に案内されてしまっては従う他ない。
 が、今回ばかりは一言云っておかなければ。

「ナナリー、こういうことは相談してくれないと。こちらの都合もあるだろう?」
「ごめんなさい。でも、どうしても結婚のお写真を撮っていただきたくて」

 家族写真ではなく、結婚記念と一目で判る写真を。そんなナナリーの願いを聞いたルルーシュは瞠目した。
 ナナリーは変わった。皿洗い勝負のときにも感じたことだが、昔は何でも兄に従っていた妹は、数年のうちにこんなにも逞しく、そして強引になっていた。しかし変わったのはルルーシュも同様で あり、妹をただ猫かわいがりしていた過去を思うと、その差を感慨深く思いさえする。
 家を出たこと。そして戻ったこと。そのどちらもが正しい選択だったと確信を得たルルーシュは、今日くらいは妹の我儘に付き合ってやろうと、なかば諦めの境地でタキシードに着替え、無理矢理髪までセットされて。
 そしてスタジオに戻ってから、さらに30分以上待たされた。
 人を待たせることはよくあるけれど、待たされることは嫌いだ。待ち時間が手持ち無沙汰であれば、猶の事。だからC.C.に思いきり不満をぶつけてやろうと思っていたのに、モニカに伴われて 戻ってきたC.C.を見た瞬間、ルルーシュは息を呑んだ。
 これまで見たことのない女がそこに居た。
 純白のウエディングドレス。控えめなパゴダスリーブと首まで覆う総レースのドレスという、肌の露出が限りなくゼロに近いクラシカルなデザインではあるけれど、清楚な雰囲気が女によく合って いる。プリンセスラインのシルエットも可憐であるし、顔のまわりをやわらかく覆うマリアヴェールが彼女の透き通った美しさを際立たせていた。

「とてもお綺麗です、お義姉さま!」

 ナナリーの歓喜の声がこだまして、世界に音が戻ってきた。
 いつになくはしゃぐ妹と、嬉しそうに応えるC.C.。どこか現実味に欠き、ルルーシュが蚊帳の外で遠巻きに眺めていると、不意にナナリーが振り返った。

「お兄さまったら! 何も云って差し上げないなんてひどいです」
「あ、あぁ・・・いや、ナナリー、そのドレスはまさか・・」
「もう、そういう意味ではないのに・・・」

 ぷく、と頬を膨らませて見せた妹は、しかし「覚えていらしたんですね」としみじみ呟いた。
 C.C.が着ているウエディングドレス。それはかつてマリアンヌが着たものだ。
 ちなみに写真で見ただけではなく、ナナリーと結婚式ごっこをすると云ってマリアンヌが実際に着た姿を見たこともあるという、兄妹にとっても思い出深いドレスである。
 しかしマリアンヌとC.C.では身長も体格も違う。C.C.の方が小柄で華奢だ。なのに今C.C.が纏うドレスは寸分の狂いもなく痩躯に沿っている。それは、つまり        ・・

「仕立て直したのか」
「はい。C.C.さんはお裁縫もお上手で」
「はっ!? C.C.がしたのか!?」

 改めてC.C.をまじまじと見遣ったルルーシュは、なぜか頭痛に襲われた。数年間一緒に暮らしていたのに、どうして籍を入れた今になって嫁の意外な一面を発見しなければならないのか。しかも ウエディングドレス姿のC.C.は妙にしおらしくて調子が狂う。普段はしない化粧が艶やかで、化粧とは地の悪さを隠すものではなく美しさを引き立てるものなのだと初めて知った。
 そう、綺麗なのだ。見飽きるほど顔を合わせてきた女が、綺麗すぎて直視できないくらいに。
 ナナリーが云えと云ったのは、たぶんそういう賛美なのだろう。しかしC.C.に対してそんな言葉を掛けたことはない・・・こともないけれど、閨での睦言でもないのに歯が浮くような台詞を吐くことができるはずもなく。

「さあさあ、撮影を始めますよ」

 隙のない営業スマイルのモニカに促されたものだから、C.C.とはまともに会話できないまま再びフラッシュ攻めを受けることになってしまった。



 そして撮影が終了し、話は冒頭に戻る、というわけだ。



 撮影が終わったら多少は話す時間があると考えていた己の認識が甘かったと、ルルーシュは舌打ちしたい気分だった。
 結婚式の代わりなだけあって、当然ながらメインは花嫁である。ルルーシュとふたりの撮影もあったけれど、C.C.単独での撮影が多かった。しかもモニカがちょくちょく微調整やら化粧直しに 入るため、声を掛ける隙がなかった。
 何を遠慮しているんだ、とセルフツッコミを入れても後の祭り。
 C.C.も着替えに連行されたことだし、とルルーシュがタイに手を掛けたところでナナリーから制止の声が掛かった。

「待ってくださいお兄さま。そのままで」

 ルルーシュには理由がさっぱり解らない。おでん屋を開ける前に夕食もとらなければならないので、決して時間に余裕があるわけではないのに。
 訝しんでいると、スタジオの出入り口からスタッフのノネットが顔を覗かせた。

「タクシー着いたよ。待たせてる」
「ありがとうございます」

 ノネットに感謝を伝える妹にルルーシュは驚いた。商店街の外れとはいえ、おでん屋までは余裕で歩ける距離だ。それなのにタクシーに乗るなんて、今から何処に行こうというのか。
 慌ててナナリーを問い質そうとルルーシュが唇を開いた、そのとき。

「お仕度整いましたよー」

 控室からモニカが出てきた。それに続いて、シュルリと衣擦れの音とともに女が姿を現わす。
 ウエディングドレスはそのままに、マリアヴェールを外したC.C.がそこに居た。
 よくよく観察すれば髪がアレンジされたシニョンに結い直され、花飾りが添えられていることに気付けただろうが、呆気に取られたルルーシュにそこまでの余力があるはずもない。

「では参りましょう」

 ナナリーに促されるまま写真館を後にして、タクシーで乗り付けた先。
 そこは。

「・・・・・・・・・・・・・・玉城の店?」

 おでん屋の某常連客がオーナーを務める店、バー・玉城だった。




 自称天才ギャンブラーの玉城は、しかし壊滅的にギャンブルの才能がない。
 大穴を狙っていつも自爆。有り金が底を尽き、やむなく退場が毎度のパターンだ。そうなると玉城は軍資金稼ぎに店を開ける。それがこの『バー・玉城』だった。
 金が尽きたら働くという経営者の都合上、バーの営業日はまちまちである。にも関わらず下町の呑兵衛どもから人気が高いのは、置いてある酒の趣味がいいのと、バーの居心地がいいからだろう。
 適度に照明が落とされた店内。鏡のごとく磨かれたテーブル。革張りのソファーも、高すぎず低すぎないスツールも座り心地は申し分ない。カウンターの後ろでは玉城選りすぐりの美酒が誇らし げに並び、しかし肩肘張ったり気取ったりしない酒も多い。店主の絡みが鬱陶しいこともあるが、それすらも『下町のバー』の醍醐味である。
 おでん屋を離れて数年、当然ながら一度も足を運ぶことがなかった場所に連れてこられたルルーシュは扉の前で眼を白黒させていた。客が入る時間帯が重なるため、こちらは初めてになる C.C.が好奇の視線を投げているのが背を向けていても解る。
 と、そのとき、先に店内へ入っていたナナリーが出てきた。その華の顔には満面の笑み。

「お待たせ致しました。おふたりとも、どうぞ」

 促されて扉を潜る。
 中は妙に薄暗かった。電気代を払う金すらないのかと、ルルーシュは本気で玉城の資金繰りを疑ったが、次の瞬間、無音だった店内に大音量で音楽が流れた。
 結婚披露宴などでよく耳にする、定番のメロディ。
 盛大な拍手とともに、おめでとうなどの言葉が飛び交う。
 眼を凝らせば、店内にはかなりの人数が居た。しかも、おそらく知り合いばかり。
 ここまでくればさすがのルルーシュも得心した。なかば不本意ではあったけれど、C.C.に腕を差し出す。そこに添えられた手を確認して、ルルーシュはゆっくりと店の奥に進んだ。
 おそらくナナリーの発案であろう、これは結婚披露宴の代わりなのだ。いや、代わりなどではなく披露宴そのものか。それとも主催が新郎新婦ではないから二次会か。
 どちらにせよ結構な人数が集まっていることは確かで、お前たち仕事はどうしたんだ、とルルーシュは内心で毒突いた。しかしスタンドプレーに慣れた身体は、思考の片隅で出続ける指示を 拾って席を目指す。わざと遠回りして、殊更ゆっくりと。そこだけ明かりが点いているソファー席にC.C.をエスコートして腰掛ければ、暗かった店内にやわらかく照明が灯った。
 幼い頃から見知った面々。その誰もが表情を和らげ、ルルーシュとC.C.を見守っている。

(・・・・・あぁ、)

 ふとルルーシュは思った。これは僥倖ではないか、と。
 ルルーシュの両親はすでに他界し、C.C.に親はいない。ルルーシュ自身は妹におでん屋を押し付けて何年も音信不通になり、最近になってフラリと戻ってきた放埓者だ。にも関わらず下町の顔 馴染みたちは以前と変わらず接してくる。しかもC.C.込みで。ここに集まった面々の顔を見ていると、「だって家族だろう!?」と聞こえてくるようだ。
 まったく、頭の螺旋が緩んでいるとしか考えられない。
 しかし隣の女が嬉しそうに眼を細めているから、こんな日もまぁ悪くないと思ってしまうのだ。

「C.C.」

 司会進行役であるリヴァルの拡張された音声は大きい。呼び掛けは対象者だけに届いたらしく、純白に身を包んだ花嫁がふわりとルルーシュを仰ぎ見る。
 その、蜂蜜色のとろけるような眼差し。
 吸い寄せられるように小さな耳へ唇を寄せ、写真館からずっと云えずにいた賛辞を贈ると、C.C.は破顔する。それはボロアパートで同居していたときからルルーシュがさせたいと望んでいた、屈託のない笑顔だった。










「懐かしいけど、まるで昨日のことみたいよね」

 アルバムを捲りながら、カレンはポツリと零した。
 ちゃぶ台の向かいに座るC.C.は優雅に湯呑を傾けている。皿の上に鎮座する大福は半分だ。一方、カレンの皿にはすでに影も形もない。汚れた手でアルバムに触れるのは失礼だと遠慮して、 早々に胃へ収めてしまった。
 カレンはアルバムをまた1ページ捲る。
 収められているのはすべてルルーシュとC.C.が結婚したときの写真だ。写真館で購入した4ツ切3面台紙とは別に、写真館で撮ったたくさんの写真やその後ナナリーたちが撮影した写真が山の ようにあって、分厚いアルバム1冊を見事に使い切っている。
 写真に写る顔は皆一様に笑顔だ。
 もちろん、あの日はカレンも楽しんだ。
 ナナリーとは、兄夫婦の結婚報告を兼ねた食事会のようなものを開きたいと相談を受けたときからの協力者だった。またの名を、妹同盟。おでん屋では狭くて大勢招待できないから、と玉城に バーを使わせてほしいと交渉しに行くナナリーに付き添ったりもした。ちなみに、咲世子も篠屋をぜひ使ってくださいと申し入れてくれたけれど、祝いの席に酒は付き物だからとバー・玉城に白羽 の矢が立ったのである。
 酒は玉城の祝儀代わり兼おでん屋のツケを帳消しにすることで賄われ、食べる物はひとり1品の持ち寄りとした。料理持参が難しい者は会費の支払い。そういう予定のはずだったのに、ナナリー は最終的に会費をすべて「お礼です」と玉城へ渡していた。さすがナナリーだ、懐が深い。玉城は泣いて喜んでいた。        というのは完全に余談であるが、たぶんあの日の下町商店街は 通夜葬式かシャッター街かと疑われるくらい静まり返っていただろう。代わりにバーは爆発するんじゃないかというほど騒がしかった。
 仕事を休めなかった仲間たちも夜には次々と参戦し、幸せになれだの嫁が美人で羨ましすぎるだのとまた大騒ぎ。朝比奈がビールを中心に酒を追加してくれたが追い付かず、終いには食べる 物がなくなって一部の酔っ払いはおでん屋へ傾れ込んだほどだった。
 世界中のどこに、結婚当日にタキシードのままでおでんの給仕に奔走する新郎がいるだろうか。バーではそんな揶揄から女子会が始まり、非日常的な夜は更けていったのだ。
 そんな中でもナナリーは周囲への気遣いを忘れなかった。が、しかしデジカメも決して手放さなかった。その成果が今、カレンの手元にある。
 写真の中のルルーシュとC.C.はどれも本当に幸せそうだ。それは、写真に写る表面的な部分に留まらなかったけれど。


「まさかあのとき妊娠してたとはねぇ」


 カレンが視線を遣った先にいるC.C.は、細身の身体なのに腹だけ出ている。

「あれは私も知らなかった」

 つわりが始まったのは籍を入れて1ヶ月ほど後のことだった。そのときも下町に衝撃が走ったものだ。あのルルーシュが父親になる、と。
 あの衝撃も昨日のことのように思い出せるが、月日というのは存外早く過ぎるものらしい。

「その子、予定日いつだっけ?」
「来月の中頃だが・・・早まるだろうな」
「ルルーシュと誕生日被ったらどうすんの」

 カレンもC.C.も面白半分で笑う。
 来月産み月とは考えられないほどC.C.の腹は小さく、コロンと丸い。が、ドラマで見かける妊婦のそれがわざとらしいくらい誇張されているだけだから、実際の妊婦なんてこんなものだ。それに 昨今のスタイルは『小さく産んで、大きく育てる』が主流だから、無事に元気な子が生まれてくれればそれでいい。

「カレン、そろそろ時間だ」

 11月下旬とは思えない陽気を入れるために開けていた窓を閉めながらC.C.は云う。
 時計を見れば、確かにお暇の時間だった。手元のアルバムをケースに戻し、携帯電話をカバンに仕舞っていると、C.C.が冷蔵庫から家庭用の両手鍋を取り出してきた。

「おでん持って帰るか?」
「いる。あ、ちょっと待って、財布財布・・」
「昨日の夕食用に下げたものの残りだ、お代はいい。鍋は今度返してくれ」
「ラッキー。そういうことならありがたく頂戴するわ」

 夜用に持ち帰り頼もうと思ってたんだよねー、とカレンは上機嫌だ。C.C.は風呂敷を出してきて手際よく鍋を包む。

「ねぇお母さん、今日の晩御飯は何?」
「チキン南蛮とコールスロー、レンコンのきんぴら、ひじきの煮物、白菜と豆のミルクスープ、それに白ご飯だ」
「見事に和洋折衷ね。きんぴらとひじきなのにミルクスープって」
「きんぴらは昨日の残り物だ。持っていくか?」
「え、いいの? いるいる」

 これで今晩のおかずは完璧だ。よっしゃ、とカレンは拳を握った。料理は掃除と並んで苦手分野で、回避できるならそれに越したことはない。
 それに、食べるなら美味しいものを食べたいに決まっている。
 ちょっと意外だったが、C.C.の作る御飯はとても美味しかった。それもそのはず、それらはすべてルルーシュ直伝なのだ。おふくろの味がアイツの味ってどうなの、とC.C.と話したことがあった けれど、C.C.は肯定的だった。曰く、「施設の単調な味付けより美味しいからな。それに、子どもの成長にもいい」だそうな。その貌は立派に母親のそれだった。
 ところで、あのC.C.を人の親にしたルルーシュはというと・・。

「今日はルルーシュ帰ってくんの?」

 きんぴらが詰まったプラスチック容器入りの紙袋を下げ、風呂敷に包まれた鍋を抱えてカレンは部屋を出る。
 この家の居間はおでん屋の2階にあって、それ自体は別にいいのだが、この急勾配の階段だけはいつまで経っても慣れない。大人ですら恐怖を感じるのだから、これは妊婦や小さな子どもにはつらいのではないだろうか。

「帰ってくるぞ。今日は都内にいるからな」

 C.C.にしては解りやすいくらいの明るい声が頭上で響く。
 ルルーシュは現在、おでん屋の営業兼広報のような仕事をしている。その他にもフランチャイズだったか、そんなのの調整役やら監督をするなど、関東を中心に全国を飛び回っている。おでん 屋2号店の店長よりもよほどルルーシュらしい仕事だと思う反面、身重の妻を放置して出張が多い点はいただけない。旦那にずっと貼り付かれていたらそれはそれでストレスだけど、それにしたって留守にしすぎだ、あの男。
 もっとも、それこそカレンが口出しする問題ではない。まぁ頭の回転が速くてズル賢いくせに恋愛面だけはイマイチ鈍感で変に不器用なルルーシュのことだから、浮気の心配はないのかもしれないが。

「そう、よかったわね」

 裏口から外に出ると、まだ思いのほか暖かかった。ただしそれも今だけで、季節柄、グングンと気温は落ちていくだろう。
 おでん屋の出入り口へ回り、せっせと仕込みをするナナリーにおでんのお礼と挨拶を済ませる。そしてC.C.に「またね」と告げようとしたときだった。


「母さん!」


 鼓膜を震わせた元気な声。それが飛んできた方へ目を向けると、子どもがひとりこちらへ向かって駆けていた。
 身体に釣り合わない大きなランドセルが走りに合わせてカタカタと音を立てている。誰にでも覚えがあるだろう、それは懐かしい旋律。

「おかえり」
「ただいま。カレンさん、こんにちは」
「よっ。おかえりー」

 両手が塞がっているのでニカッと笑顔を送ってやれば、はにかむように笑いながら「ただいま」と応えてくれた。

「今から幼稚園のお迎え? 一緒に行くよ」
「ん? 今日は遊びに行かないのか?」
「作文の課題が出てさ、みんな終わらなくて残ってやってるんだ。先生は宿題でいいって云ったけど、家で作文なんかやだよなぁ」
「お前は?」
「もう出した。得意だもん、そういうの」

 父さん似、とその子は得意げに笑う。艶のある黒髪や幾分くすんでいるけれど深みのある紫の虹彩と相俟って、そういう表情をするとさらにルルーシュそっくりだ。
 しかし、まだ子どもは子どもだった。ランドセルくらい家に置いてくればいいのに、早く行こうと踵を返す。ひとりで迎えに行ってしまいそうな様子に自然と頬が緩んで、カレンはC.C.に声を掛けた。

「じゃあね、C.C.。ルルーシュによろしく」
「ああ、今度はジノと店にも来てくれ」

 はいはい、と返してC.C.と別れる。数歩進んだところで振り返ると、仲良く並んで歩く母子の背が見えた。
 どうやら手を繋ぐ繋がないで揉めているらしい。あれくらいの歳になると、親と手を繋いで歩くなんて恥ずかしくてできないに決まっているのに。特に、人目のある場所では。C.C.もそれを解って やっているのだから質が悪い。
 しかしあの子は折れて手を繋ぐことにしたようだ。渋々といった態でいながら手を差し出す子を、可愛いとカレンは思った。あんな子どもほしいなぁ、とも。
 数ヶ月前に結婚したばかりのカレンが我が子を腕に抱くのは、まだ先の話だろうけれど。

「・・・・なんてね」

 鍋を抱え直してカレンは歩き出す。
 月日が経つのは存外早い。・・いや、当時下町を震撼させた子が、今や小学生だ。あのお騒がせ夫婦にはまだ下に幼稚園児の、そしてさらにお腹に3人目の子までいるのだから、存外どころか確実に早い。
 カレンは困ったように息を吐いた。
 見上げた空は雲ひとつない見事な快晴だ。思わず笑い出したくなるくらいの。
 だから、口を吐いて出た台詞とは裏腹に、その表情は晴れ晴れとしていた。


「まったく、       いつまで経ってもお熱い夫婦だこと!」






『真珠の花嫁』

2014年いい夫婦の日


2014/11/22 up
2014/11/28 加筆up